五感を開放するためのプログラム
「心地いいなとか、あるいは心地よくないなとか、どんな言葉で捉えているかはわからないけれど、自分の心が動くことを感じ取ってほしい。それが、美術のもとだと思うから」
1989年の横浜美術館開館当時から30年近く続けられている〈子どものアトリエ〉で、主席エデュケーターを務める山﨑優さんは言う。週に3日横浜市内の学校や幼稚園などと連携して行われている「学校のためのプログラム」は、開館準備の段階で、5年間をかけて練り上げられたもの。幼児教育の専門家からアーティストまで、混成チームで作られたという。そのアクティビティのどれもが“体感”することを大切にしている。たとえば、テーブルや床のシートに準備された陶芸用の土粘土は、触ったり、足で踏んだり、好きなように遊んで良いのだが、重要なのは柔らかいこと。なぜなら柔らかさは、山﨑さん曰く「手の動きを誘う」から。「手は“意思”によって動く」という考えのもと、プログラムには、その意思を引き出すための仕掛けが必ずある。
“触れる”ことから始まる対話
取材当日、本郷特別支援学校の子どもたち30名がやってきて、自由に場を楽しむ姿に見入ってしまった。大きなビニール袋に色付きの湯と透明な水とを入れたウォーターベッドのようなものに抱きつくようにもたれて、うっとりとした表情を浮かべる子。少し動くと揺れるのが楽しいのか、体をゆらゆらと動かしている。あるいはただジッとしている子も、動かないことを選択しているように見える。何より気持ちよさそうで、表情が緩んでいるのがわかる。新聞プールと名付けられたエリアには、引き裂いた新聞が山と積まれている。この柔らかさを出すために、手でちぎっているのだという。新聞紙にまみれるだけで、笑顔になることに気づかされる。
ハイライトは、外のエリアで行われる絵の具遊びだった。床、壁、ガラス、好きなところに好きなように描いていい。あるいは、描かなくたっていいのだ。水に溶け合って色が混ざっていく姿を眺めている子。絵の具など気にせずに水遊びを始める子。足に絵の具をつけられて笑っている子。ガラスに水をかけて、ついた絵の具を落とすのに注力している子もいた。画家でもある山﨑さんは、絵の具が原色であることも重要だという。色を混ぜることで新しい色が生まれることを知り、試してみようと動きを誘発するからだ。〈子どものアトリエ〉は、山﨑さんのように“実技系”のスタッフによって運営されている。実際の制作を通して身についた、素材に対する感覚のようなものがアクティビティの中に生かされている。
反応のキャッチボールのために
遊び上手の子もいれば、それほど動きの多くない子もいる。それぞれのスタンスで“いつもと違う環境”に向き合う姿は、言葉にならない感覚として、大人たちにも伝わってくる。その反応のキャッチボールこそが、〈子どものアトリエ〉の大きな狙いのひとつ。山﨑さんは言う。
「体を動かせない子どもでも、あのお湯の入ったビニール袋の上に寝かせて、ゆらゆらと動かすと、瞬きもせずに反応していることがわかるんです。自分で体を動かせなくとも、心が動いているのがわかると、先生方も私たちも嬉しいんです」
頭で考えるのではなく、体が反応することで、心が動いていく。その姿は外から見ていても、とても微笑ましく、温かいものであることを知った。
引率をしていた本郷特別支援学校の先生も、子どもたちが開放的に楽しんでいた姿が印象的だったという。
「学校や家庭ではなかなかできないダイナミックな活動を楽しんでいたと思います。洋服に絵の具がついても気にしないで思いっきり活動に没頭していましたから。自分から動くのが得意でない子どもたちも、開放的で自由な空間なので、心地よく過ごすことができたと思います」
本当ならば何度も訪れて経験を積み重ねることができたら、と話す先生もいた。横浜美術館〈子どものアトリエ〉の「学校のためのプログラム」は年間90日、横浜市内の幼稚園、保育園、小学校、特別支援学校などを対象に行われているが、幼稚園・保育園や小学校は、3〜4年に一度参加できるかどうか。それに対し、特別支援学校は3年に2回の割合で受け入れがある。「できるだけ、必要とされているところに支援するべきというのが横浜美術館の姿勢です」と山﨑さん。
「ここでの活動は、アーティストの育成を第一の目的にしているわけではないので、すぐに表現することを求めてはいません。この子たちがその場に安心して居られるか、その環境づくりがまず大切なことだと考えています。みんなで集まって、みんなでやってみるということも大事なことです。人は、人との関わりの中で生きていくわけですから。誰もがそうですよね。子どもたちが生きていくために必要な力をつけるための手段として、アートを活用しましょうっていう考え方なんです」
すべてのプログラムを終えて昼食を食べ終わった子どもから、光と音のスタジオと名付けられたスペースへと移動する。影絵のように投射された色とりどりの影を背景に、叩けば“いい音”がする見たこともない楽器が置かれている。キラキラと光るその場所で、お腹いっぱいでまどろむ子、ひたすら楽器を叩く子、走り回る子と、好きなことをして過ごしていた。
アートには、心を動かす力があって、「心を動かすことが、生きていることでしょう?」と山﨑さんは言う。子どもたちが遊んでいるのを見ているだけで、こちらの心が動くのは、アートの力かそれとも遊ぶ姿の素直さのおかげか。子どもたちは手を振りながらバスに乗り込んで、帰って行った。
Information
横浜美術館 子どものアトリエ
小学校6年生(12歳)までの子どもたちを対象とした創造の場。年間を通じて、平日は横浜市内の教育機関と連携した団体プログラム、休日は親子や個人を対象とした造形や鑑賞のプログラムを実施している。
詳しくは、横浜美術館 ウェブページまで。
横浜美術館
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