好きなものは高い所、つるつるしたもの、音楽。
『プレイボーイ〜伝説の西岡』(村井英晃著/大阪ブリキ玩具資料室)。2016年10月に出版された、大阪〈アトリエコーナス〉メンバー最年長の西岡弘治さんの人生を親しみやすい絵と文で綴った小さな“自伝絵本”には、そのタイトルどおりこの個性的なアーティストの「伝説」的なエピソードがたくさん詰まっている。
1970年に生まれ、幼くして自閉症と診断された西岡さんは、よちよち歩きの頃から、突然いなくなったかと思うと「団地の屋上で日本酒の一升瓶に頬ずりしていた」というくらい、高い所とつるつるしたものが何よりも好きだった。保育園時代にも教会の屋根に上って十字架にべったり。女性の綺麗な足にもいきなり頬ずりして、保育士さんを慌てさせた。多動傾向があり、かけっこやジャンプが一番の自慢で、すべり台を全速力でかけ下りるのが得意。電車のホームの反対側へジャンプして飛び移ろうとして、間一髪助かったことも。家を飛び出し行方不明になることもしばしば。コーナスを主宰する白岩高子さんが「野性的」と表現するとおり、運動神経抜群、いつも自分が目指すものや場所にまっしぐらに行動するのが西岡さんのやり方だった。
そして、幼い頃からもうひとつ大好きだったもの、それは赤ちゃんの頃から夜泣きする度にお母さんがレコードで聴かせていたクラシックの曲。音楽が好きで、教会のピアノをいつも勝手に弾いては、牧師さんにたしなめられていたという。
楽しかった思い出が生んだ「写譜」のスタイル。
高校卒業後、地元阿倍野の〈コーナス共生作業所(現アトリエコーナス)〉に就職。2005年に施設がアート活動に取り組み始めたのを機に、初めて絵を描いた。そんな彼が、現在の自身のスタイルに出合うきっかけとなったのは、ある年、コーナスに古いピアノが寄贈されたことだったと白岩さんは語る。
「練習曲の楽譜をずっと眺めていたのですが、数日経ってから、西岡さんが突然、写譜をし始めたんです。その楽譜は、彼が幼いころによく聴いていたソナタでした。昔の楽しかった思い出が表現に繋がったんですね」
西岡さんが始めた手描きの「写譜」は自由なペンの動きから生まれる曲線が作るフォルムによる、書とも絵とも形容できるまったくオリジナルなスタイルのドローイングだった。面白いのは、溶け出すような歪んだ五線譜とそこに描かれる文字から音符ひとつひとつに至るまでのすべてが、正確に原典の「写し」になっているところだ。本来、記号でしかないはずの楽譜に感情がもたらされ、まさしくそれぞれの曲が「演奏」されるかのように表情豊かな絵となって生まれ出てくる。その独創的な作品の魅力は多くの人々に訴え、2010年には大阪府の公募展で優秀賞を獲得。この受賞をきっかけに作品が注目され始めた。
グローバルに活躍、でも「ノらない」時は描かない。
アパレルブランド〈NUDE:MM〉のデザイナー丸山昌彦氏が西岡さんの作品に“一目惚れ”したことからコラボレーションのプロジェクト「PR-y」が立ち上がり、その作品をモチーフに使用したジャケットやパンツなどが製作され、パリの展示会で各国のバイヤーたちから注目を浴びた。2013年には日本の俳優やミュージシャンも着用してメディアに登場するなど、話題を呼んだ。
その後、アメリカ・ロサンゼルスやパリの芸術祭でも作品が展示されると、ロンドン五輪を機に始まった障害のあるアーティストの文化プログラム「アンリミテッド」の関係者の目に止まり、ともにコーナスで活動する植野康幸さんや大川誠さん(故人)とともにロンドンの展覧会にも招かれた。
発表の場が広がり、今やグローバルな場で活躍する西岡さんだが、制作姿勢は以前と少しも変わらず、いたってマイペース。気が向いた時だけ、鼻歌を歌いながら、時に大胆に、時に緻密に自分の心持ちを五線譜の上に表現していく。「ノらない」時は、いつまでも寝転がっている。コーナスで親しみを込めて「巨匠」「先生」と呼ばれるゆえんである。クラシックから懐メロ、現代のポップミュージックまで好きな音楽の幅は広いが、最近は子どもの頃によく見たアニメの主題歌の楽譜を書くことが多いという。かつて少年の頃、教会のピアノを気ままに弾いていた時のように、遊び心を保ち続けたまま絵に向き合う西岡さんはまさしく「プレイボーイ」だ。その大らかな人柄から生まれる“伝説”の数々はきっとこれからも増え続けていくだろう。