ストーリー
【メインイメージイラスト】10人あまりの人が輪になって踊っている。その中に車椅子の人、子供、ヘッドホンをした人、白杖の人、スロープを持った人、ダイバーさん、シティさん、星加さん、犬もいる。

(カテゴリー)コラム

「合理的配慮」を考える
その1:「合理的」な「配慮」って何?

クレジット

[イラスト]  naoya

[写真]  池田礼

[文]  石村研二

読了まで約30分

(更新日)2024年12月03日

(この記事について)

障害者に対する「合理的配慮」の提供とはなにかを考えるコラムシリーズ。第1回は、そもそも「合理的配慮」とはどのような概念かを学びます。

本文

登場人物

ダイバーさん(学ぶ人)

アートに興味があるが自分にはできると思っていない。福祉や手話にも興味がある。

シティさん(教える人)

ダイバーシティの実践のため福祉やアートの現場でいろいろなことをやっている。


ダイバーさん

先日、「2024年4月から民間事業者にも合理的配慮の提供が義務づけられた」というニュースを見ました。民間企業も障害者の求めに応じてサービスを提供しなければならないとか、そういう内容だったんですが、そもそも「合理的配慮」って何なんでしょう?

シティさん

4月に「改正障害者差別法」が施行された話ですね。内閣府によると、合理的配慮の提供とは「障害のある人にとっての社会的なバリアについて、個々の場面で障害のある人から『社会的なバリアを取り除いてほしい』という意思が示された場合には、その実施に伴う負担が過重でない範囲で、バリアを取り除くために必要かつ合理的な対応をすること」とされています。

ダイバーさん

ちょっと言葉が難しくてよくわかりません。どういうことですか?

シティさん

例えば、車椅子利用者がお店に入りたいときに段差があって入れないからなんとかしてほしいといった場合に、お店の人が携帯用のスロープを設置したり、車椅子を持ち上げたりしてお店に入れるようにすることです。

 

大事なのは、障害のある人の求めに応じてやるのが義務付けられているだけで、あらかじめエレベーターを設置しなければいけないとかそういうことではないということです。障害のある人にとって何か不便なこと(バリア)があるときに、そのバリアを取り除くために障害のある人と事業者が話し合って、事業者の負担が重くなりすぎない範囲内で、どう対応するかを決めましょうという決まりです。

ダイバーさん

障害のある人に、合理的な範囲内で配慮をすることを義務にしたということですか?配慮を義務にするってなんかしっくりこないですけど。

シティさん

そうですね。「合理的配慮」は私たちが「配慮」という言葉からイメージするものとは違っています。しかも私たちの社会を誰にとっても生きやすい場所にする可能性も秘めていると私は思っています。「合理的配慮」についての本も書かれている、星加良司(ほしかりょうじ)先生(以下、星加さん)に詳しいことを聞きに行きましょう!


「合理的」な「配慮」って何?

ダイバーさん

「合理的配慮」が、障害者が困っている社会のバリアをなくすために対応することだとはわかったんですが、それが「合理的」な「配慮」というのがよくわかりません。「合理的配慮」ってどういう意味の言葉だと考えればいいんでしょうか。

星加さん

合理的配慮の意味がわかりにくい理由の一つに訳語の問題があります。今回法律で事業者に義務付けられた「合理的配慮の提供」のもとになっているのは、2006年に「障害者権利条約」で定められたものです。ここでは“reasonable accommodation”という言葉が使われていて、それを日本語に訳したのが「合理的配慮」です。

 

“reasonable”を「合理的」と訳すこともありますが、合理的と訳される英単語としてもう一つ“rational”があり、こちらの意味で合理的という言葉を使う人のほうが多いと思います。

【写真】書棚をバックに座る星加良司さん。グレイヘアーで短髪、グレーのシャツを着てテーブルの上で手を組んでいる
星加良司さん
シティさん

“rational”は「理性的な」、”reasonable”は「妥当な」や「適正な」という意味の言葉です。なので、rationalは論理的な合理性を、reasonableは「合意できる」という意味での合理性を示すと考えることができますね。

星加さん

そうですね。合理的配慮の文脈でいうと、“reasonable”では、配慮を提供する側と提供される側それぞれに主張する理由があるなかで、対話プロセスによって折り合える地点を探しだせたとき、それが合理的な解決策だと解釈できます。

 

これに対して、“rational”のニュアンスで考えると、合理的な範囲は専門的な知見から論理的に決めることができるように捉えられてしまいます。これは、「合理的配慮」の本来の意味からは離れてしまいます。

 

“accommodation”の方は、本来は「適応」や「調整」という意味です。合理的配慮の文脈では、障害のある人たちのニーズに対して行う調整というドライな概念なんですが、配慮という言葉は、気遣いや思いやりのようなウエットな働きかけを想起させると思います。

 

その結果、合理的配慮の範囲は専門的な知見から専門家が決めるといったニュアンスで捉えられたり、従来行われてきた障害者への支援と区別がつきづらくなっているように思います。もちろん訳語だけのせいではないんですが、訳語もそうなっている理由の一つではあるでしょう。

ダイバーさん

日本語の「合理的配慮」の語感は無視して、そういう新しい言葉だと考えたほうがわかりやすそうですね。

星加さん

日本語の定訳ができる前、私は“reasonable accommodation”を「理にかなった調整」という言い方をしていました。「障害者のアクセスを可能にするための変更、調整」というところでしょうか。

 

ただ、配慮という言葉が使われたことに本来の意味とずれてしまうポイントがもう一つあります。配慮という言葉はする側の主体性が前面に出て、配慮する側がやるというニュアンスが強くなります。でも法的概念としての合理的配慮は、配慮を受ける側の意思表明が出発点になっています。この配慮を受ける側の意思表明の部分は合理的配慮のキモで、従来の障害者支援とは大きくパラダイムが異なる点なので、配慮という日本語訳が持つ語感にまどわされず、意味を理解してほしいです。

【イラスト】合理的配慮の訳語の説明をする星加さんとそれを聞くシティさんとダイバーさん。「合理的配慮」矢印「(元になった英語)Reasonable Accomodation」矢印「理にかなった調整」と書いてあり、ダイバーさんが「あれ、こっちのほうがしっくりくる」シティさんが「まあまあ」と言っている。

障害は個人にある?それとも社会にある?

シティさん

障害者差別解消法の合理的配慮の提供の指針では、「個々の場面で、障害者から『社会的なバリアを取り除いてほしい』旨の意思の表明があった場合に」合理的な配慮を講ずることを義務とするとありました。これが、これまでのパラダイムと異なるというのはどういうことなんでしょうか。バリアフリー法などとは考え方が違うということですか?

星加さん

合理的配慮は、ある特定の障害者の側から意思の表明があってはじめて、措置がなされる可能性が生まれます。これに対してバリアフリーは、ある程度不特定多数の障害者が使いやすいユニバーサルな環境を作っておきましょうという考え方です。

 

この2つの考え方は根本が異なります。バリアフリーでは、障害者に機能制約があることでアクセスできなくなっていることに対して、事業者側がある種の善意でアクセシビリティの確保や支援を提供しましょうという考え方です。合理的配慮の考え方は、障害者が感知した社会的障壁は、障害のない人なら経験せずに済むことで、社会が不平等な状況であることを意味するから、改善するべきだという考え方です。

 

従来の考え方では、障害者はその中にある機能制約によって他の人と同じようにできないから、そのできない部分をなんとか埋めてあげましょうという発想。新しい考え方では、障害のない人に対しては存在しない社会的障壁が障害者に対して立ちはだかっているので、その障壁をできる範囲で取り除いていかなければならない発想です。つまり、なぜ配慮や支援が必要なのかについての認識が、まったく違います。

【写真】星加良司さんの横顔、少し笑顔で話している
ダイバーさん

それは、障害のとらえ方がそもそも違うということですね。バリアがなくなるという結果だけ見るとあまり違いはなさそうですけど、どうしてそれが大きなパラダイムシフトだと言えるんでしょうか。

星加さん

この2つの考え方は、障害を個人モデルでとらえるか社会モデルでとらえるかという話に通じます。個人モデルでは障害者が支援を必要とする原因を個人の身体に求め、そういう条件を持って生まれてきてしまったことで困難が生じていると考えます。これに対して社会モデルでは、今の社会が一部の人のための歪んだものになってしまい、そこから排除されていた人たちがいることで、問題が起きていると考えます。

 

そのため、その状況に対してどう対処していくかについても、個人モデルでは、困難な状況にある人に対して社会が手を差し伸べたほうがいいと考えるのに対して、社会モデルでは、状況を生み出している社会の歪みをできる範囲で是正することが社会の義務だと考えます。つまり、障害者が直面している問題の起点に何があるのか、そこが大きく異なっているのです。

ダイバーさん

今の社会が一部の人のための歪んだものになっているとはどういうことですか。

星加さん

今の社会はマジョリティと言われる一部の人には配慮が行き届いていて、他の一部の人には配慮がされていないという不均衡が存在している社会です。合理的配慮の文脈でいえば、障害者への配慮が充分になされていません。そういう偏りがすでに存在していることを前提とせずに、今の社会システムを作動させると、形式的には同じ措置が行われていても、一部の人には不利な状況が生まれます。


障害の個人モデルと社会モデル

シティさん

星加先生のお話はまだまだ続きますが、ここで少し障害の個人モデルと社会モデルについて説明しておきたいと思います。ダイバーさんは個人モデルと社会モデルの違いはわかりますか?

ダイバーさん

個人モデルは、障害者と言われる特定の人の心身の機能が障害を生み出していると考えるのに対して、社会モデルは社会の仕組みが特定の人に障害を生み出しているという考え方だと学びました。でも、「社会が障害を生み出している」というのがよくわからないんです。

シティさん

社会モデルを理解するために星加先生もよく例に出す『障害者の村』という寓話があります。この村ではみんなが車椅子ユーザーで、建物も車椅子の高さに合わせて設計されています。ふつう「健常者」とされる車椅子を使わない人には、天井が低かったり、椅子がなかったりと、とても不便です。

【イラスト】カフェの入口に車椅子の女性とダイバーさん。車椅子の女性が「おすすめのカフェだよ」とにこやかにいうが、入口の高さが低く、ダイバーさんは「う、うん」と戸惑いながら答える。
【イラスト】テーブルにつく車椅子の女性と、横に中腰で立つダイバーさん。テーブルの上にはパンケーキとコーヒーがそれぞれ置かれている。車椅子の女性は「ここのパンケーキ最高なの」とコーヒーを片手に話すが、ダイバーさんは天井に手を当て「低い、えっイスは?」と発言。背後の壁にヘルメットと「ヘルメット貸します」の文字
ダイバーさん

なるほど、自分でも困る経験をすることで、バリア(障害)の原因が環境にあることがわかるんですね。障害者にとって今の社会は、自分にとっての『障害者の村』と同じだと。

シティさん

そうです。それが星加先生の言う「社会の不均衡」なんです。それがわかったら、星加先生の話に戻りましょう。


多くの人が気づけない不平等

ダイバーさん

いわゆる「健常者」は、不便を感じていないので、社会が不均衡だなんて思わないということですね。僕も気づいていないことが多いと思います。それに気づけるようになるためにはどうしたらいいんでしょうか。

星加さん

享受している恩恵に気づけないことを、マジョリティ特権というような言葉で表現することもありますが、実は私たちの心理や認知のメカニズムを考えると、ある程度一般的な傾向で、仕方がないことだとも言えます。

 

無意識(アンコンシャス)なレベルで、私たちは自分のアイデンティティを肯定的に維持したい欲求、いわゆる防衛反応のようなものを持っています。そのため、うまくやれている人はそれを自分の手柄だと思う傾向を持つのに対して、うまくいかない側は、全部自分の責任にするとしんどいので、世の中の方が悪いと思いたがります。それで、マイノリティのほうが環境要因に目がいきやすくなるんです。

 

何を言いたいかというと、マジョリティ側にいる人たちに問題があるわけでも、マイノリティ側の人たちが、世の中を見抜く眼力や見識を持っているわけでもないということです。置かれている立ち位置によって、物事の見え方や感じ方に必然的な傾向が出てくるので、世の中の偏りや不均衡にマジョリティ側は気づきにくいんです。

【イラスト】タッチパネル式の券売機の前に3人の人物。左の二人は「タッチパネルで注文できるの便利ねー」と会話。右の白杖の男性は「なんもわからん」と戸惑っている
星加さん

マジョリティ側は問題が見えにくいのは仕方がないんですが、いざマイノリティ側が問題を指摘したときに「考えすぎ」だとか「わがまま」だと断じてしまうのは問題です。マイノリティ側には社会の偏りが見えていて、切実でかつ理にかなったことを言っているはずなのに相手にされなかったり、むしろ反発を受けたりということが起こってしまう。これは、マジョリティとマイノリティの対立を深め、分断を生んでしまう可能性があります。

ダイバーさん

マジョリティ側は、いったん立ち止まって社会に偏りがないか考え直してみる必要があるということですね。

星加さん

そうです。そのために、私たちは人類史の中でいろんな工夫をしてきていて、その中の1つが、法律で差別を禁止することであり、合理的配慮なのです。合理的配慮はマイノリティが声を上げたときに、マジョリティ側が真摯に対応しなければならないと法律で定め、まずマジョリティ側の認識を改めさせることで、多くの人にとって障壁がなく均衡が取れた社会を目指しています。

シティさん

合理的配慮の提供は、障害のある人が声を上げるところからスタートするのが前提ですが、偏りがある社会では声を上げづらく機能しにくいのではないでしょうか。

星加さん

意思表明をするのは第一義的には障害者本人ですが、実際には本人以外が意思表明してもいいし、周りから見て、「社会的障壁があるんじゃないか、一部の誰かが困ってる状況じゃないか」と思った時には、本人の意思を確認する働きかけを始めましょうともされているので、本人が言わないと何も始まらないという話では本当はないんです。

 

さらに言えば、意思表明は表明する側の発話だけで成り立つわけではなく、意思表明を受け止める側もあって初めて意思表明という行為が成立します。にもかかわらず、言う側にフォーカスが当たりすぎるのはすごくおかしな話で、少なくとも同等の率で聞く側にもフォーカスしないといけないはずです。さらに言えば、マジョリティとマイノリティの非対称な関係を踏まえて考えると、マイノリティの意思表明を可能にするには、マジョリティがどう聞くかをより重視しなければならないはずです。

 

この合理的配慮に限らず、マイノリティ側の意思をちゃんと聞きましょう、表明できるようにしましょうという問題でより重視すべき観点は、マジョリティがそれをどう聞けるか、どう言い出せるような状況や雰囲気を作っていくかです。もっと言えば、 言ってもらうことがウェルカムだよっていうメッセージを発信するとか、そういうものがより重要になります。


合理的配慮はD&Iの入り口になる

ダイバーさん

社会の不均衡に気づきにくいマジョリティこそ、合理的配慮のことを知らなければいけないことはわかりました。では、どうすればいわゆるマジョリティ側の人は合理的配慮を自分ごとにしていくことができるのでしょうか。

星加さん

僕は合理的配慮の話を企業の人たちに向けて喋ることがあるんですが、その時は、合理的配慮はダイバーシティが生かされる社会に向けての文化変容のチャンスだし、そのためのトレーニングとして使えますよという話をします。いま多くの会社でD&I(Diversity & Inclusion)やDEI(Diversity, Equity, Inclusion)を取り入れようとしていますが、合理的配慮はその入口になるんです。

 

日本の法律の規定では障害分野にとどまっていますが、合理的配慮は歴史をたどれば宗教的マイノリティに対して安息日に休日を認めるとか、礼拝の時間を取るとか、そういう職務上のルールに関する例外を設ける考え方として最初導入されたものです。そういう、何か障壁があって困っている人がいた時に、お互いのニーズを踏まえて対話を通じて障壁を取り除くという考え方なので、障害者以外にも適用できるものです。

 

せっかく義務になったのだから、障害者についてそれをやってみることで、対話ってこうやっていけばいいんだとか、聞くってこういうことなんだとかを経験することができます。その経験を重ねることで、他のダイバーシティ課題や、社会的マイノリティの生きづらさや働きづらさを生み出している障壁についても同じように考えることができるようになるはずです。

 

さらにいえば、やらなければいけない側に身を置いている人自身が生きやすくなる可能性もはらんでいます。みんな何かしらのマイノリティ性を持っているはずなので、自分のマイノリティ性も対話の俎上にのせていけるようになれば、自分が感じている社会的障壁を取り除いていくコミュニケーションにも繋げていけるのです。

ダイバーさん

具体的にどのようなコミュニケーションができるようになるといいんでしょうか。

星加さん

合理的配慮では、双方の当事者同士が求める条件を満たすまで対話をしなければいけません。最初に求められた措置が、過重負担だった場合でも、それで終わってはダメで、過重でない範囲でこれだったらできます、という提案をします。その時に、当事者の側が「それだと自分にとっての障壁は除去されていません」と言ったら、じゃあ別のやり方を考えましょう、という形で対話が続き、事業者にとって過重ではなく、当事者もアクセスできる許容範囲に入るところで折り合うまで続けます。そういう対話を成立させていくためには、勝ち負けのコミュニケーションをしてしまうとダメなんです。

【イラスト】聴覚障害者(左)と資格学校事業者(右)がパソコンに向かってチャットで会話している。 障害者:(あ、申込み時伝えそびれてたんですけど)耳が聞こえないので、手話通訳者を 事業者:(あ、今からだと確保できない)だめだったので、要約筆記なら 障害者:OK
星加さん

日本人は原則だけ与えられて、あとは対話で調整していきましょうという作業が苦手です。実は合理的配慮で要求されている条件は、より一般的な望ましい対話の条件とかなりの部分で重なっていると思います。まず問題を生じさせている障壁を発見し、その障壁を取り除くことを第一義的な目的としながら、双方が持つその他の複数の事情を勘案しながら解を見つけていく必要があります。これは、問題解決のための道筋を見つける一般的な方法です。そしてそれらを、勝ち負けを競うようなコミュニケーションではなく、一緒に何かを生み出していくような、協調的なコミュニケーションで行う。合理的配慮の考え方には、そのようにしてより望ましい社会に繋がっていく可能性を開く対話を可能にしていくための条件設定が備わっているんです。

ダイバーさん

確かに日本人は対話が苦手なイメージはありますが、いろいろな人の事情を勘案したり要求を飲み込んで物事をうまく収めるのは上手なような気もします。なぜ日本人は合理的配慮のための対話は苦手になってしまうんでしょうか。

星加さん

日本人は内輪でコミュニケーションするのは得意ですが、違いや多様性を前提として、その中でコミュニケーションするのは極端に苦手です。そういうタイプのコミュニケーションは、「我々」と「かれら」みたいな話になって勝ち負けの話になってしまいます。我々の中に多様性があることを前提として社会を成り立たせていく経験値が少なく、勝ち負けで物事を判断するのに慣れてしまっているんだと思います。


異質なものが異質なままいられる社会

ダイバーさん

合理的配慮に取り組むことは、違いを前提とした対話のトレーニングになるということですが、多様性のある社会とは、違う人も内側に含むようにすることだと思うんです。違いを前提とした対話を重ねることで、尊重し合える仲間になれるのでしょうか。

星加さん

内と外という話と、同質的か多様性を含んでいるかという話は切り分けて考えられると思います。違ったものは全部外にくり出すやり方もあるし、違ったものもうちに取り込んでいくやり方もありますから。

 

人類史的に見ても、ある時期までは異質なものを外側にくり出していくベクトルの方が強かったんですが、今はそのパラダイムが変わりつつあって、違ったものを内側に取り込んでいく、あるいは、 すでに内側にあったけれど目が向けられていなかった多様性に光を当てる、D&Iの流れになってきています。

 

そのうえで、異質なものを同化させて社会を統合するのではなく、異質なものが異質なままで存在し続けられるような方向で、社会の統合原理を組み直していこう、というトレンドになってきています。ただ、そのトレンドに対するある種の反作用も世界的に起こっていて、軍事的にも経済的にも排外主義的な流れも生じてきています。

 

そういう意味では、今は人類史上の大きな別れ道かもしれません。合理的配慮がマイノリティにとって必要というだけではなく、我々がこれからどんな世界を目指していくのかという大きなテーマとも繋がっていると思います。

【イラスト】メインイメージと同じイラスト。10人あまりの人が輪になって踊っている。その中に車椅子の人、子供、ヘッドホンをした人、白杖の人、スロープを持った人、ダイバーさん、シティさん、星加さん、犬もいる。
ダイバーさん

合理的配慮に取り組むことで、対話によって違いを認識しつつ共生していく方法を見つける経験を重ねることができて、それが共生社会につながっていくんですね。

星加さん

ただ、その「違い」がフラットなものではなく、すでにある種の不均衡が存在していることに目を向けることは忘れてはいけません。

ダイバーさん

マジョリティ側が優遇されている社会で、不均衡な関係がある中で対話をしていることは意識しないといけないんですね。

星加さん

そうです。ただ違うだけでなく、そこに力の非対称性が含まれていることを前提としたうえで、共生のあり方をどう考えていくかが大事なんです。合理的配慮はその1つのモデルケースであり、実践でもあるんだと思います。


「社会モデル」で考えればハッピーになる?

ダイバーさん

多様性を含んだ社会を目指すためにも、「社会モデル」の考え方をする必要があるということですね。でもなぜ私たちはなかなか社会モデルで考えることができないんでしょうか。

星加さん

個人モデル的に考えるか、社会モデル的に考えるかは、どちらか一方が正しいというわけではなく、実は学術的にもせめぎ合いのある部分です。ただ、今の常識になっている物事の理解の仕方は、過度に個人モデル的でバランスを欠いているとは思います。だから、両方が要因としてあるというところまで認識をアップデートすることが必要で、そのためには、社会モデル的な理解を促進しなければいけません。

 

現状で個人モデル的な認識に過度に偏っているのは、その方が理解のコストが節約できるからなんです。物事を理解しようとする時に、私たちは可能な限りシンプルに考えたいわけです。なにか問題が生じていたら、その問題の原因が個人の側にあると思った方が、考える要素が少なくて済みます。それで私たちはもともと個人モデル的に考えがちではあると思います。

 

さらに広い意味での教育を通じて、私たちは人々に個人モデル的な理解を促進するような働きかけをずっと行ってきました。それは個人モデルのほうが個人を頑張らせることができるから。教育においても、ビジネスの領域でも、個人モデル的に考えさせた方が、管理者にとって利益が大きいので、その考え方に拍車をかけることになり、今の私たちの物事の理解の仕方が過度に個人モデル的になってしまっているんです。

 

そして、過度に個人モデル的に考えてしまうと、個人の責任が重くなりすぎてしんどくなる人が増えます。適切なレベルまで社会モデル的な考え方に寄せれば、世の中が正しく見えるようになるし、みんなにとってハッピーだろうと僕自身は思っています。だから、社会モデル的な考え方をしようと伝えているんです。

【写真】笑顔の星加良司さん。背景は書棚とドア
ダイバーさん

たしかに、「自己責任」では収まらない、個人ではどうしようもできない理由で困難に直面している人もいますよね。貧困問題などにもそういう側面があると思います。

星加さん

社会のルールが不変で与えられたものだという感覚が強いと、本当に出口がなくなってしまいます。実のところ社会は私たちが作れるものなので、それを変えていくルートはあるはずです。もちろん個人の果たせる役割や、改良余地がどのくらいあるかは、社会的な立ち位置によって違ってきます。マジョリティ側はその力をより大きく持っているのに対し、今困っているマイノリティは小さくしか与えられていない。そういう仕組みも含めて、変えられることを理解するには、実際に変える経験をミクロなレベルで積み重ねていくことが大事です。

 

やっぱり小さいところの成功体験がないと、いきなり大きいところでやれといっても無理なので、 そういう経験をできるだけ増やしていくことによって、社会との繋がりを維持していくことが、これからの社会を考えていく上ですごく重要なんです。ここでも合理的配慮は一つの経験として重要になってくると思います。


シティさん

話を聞いてどうでしたか。

ダイバーさん

考えることがたくさんありすぎてパンクしそうですが、とりあえず合理的配慮に取り組むことで、社会モデルで考えるトレーニングになるし、多様性のある社会に近づく一歩にもなるということはわかりました。

 

ただ、合理的配慮が具体的にどういうものなのかは理解できていないかもしれません。僕はマジョリティ側にいることが多いので、社会にどのような不均衡があるのかあまりわかっていないんだと思います。合理的配慮の実例を学んで、社会モデルで考えるトレーニングをしていきたいと思います。

シティさん

そうですね。自分のマジョリティ性を認識したうえでどのような社会的障壁があるのかを学んでいくことが大事ですね。


「合理的配慮」をもっと深く知るための本

川島聡・飯野由里子・西倉実季・星加良司
「合理的配慮 ー対話を開く、対話が拓く」(有斐閣)

飯野由里子・星加良司・西倉実季
「『社会』を扱う新たなモード」(生活書院)