従来の常識を覆す音楽会がはじまる
♪ミミファソ ソファミレ ドドレミ ミレレ……
土曜日の夜19時半、横浜の海に面した象の鼻テラス。聴衆が息を潜めて見守るなか、ギターとピアニカが「喜びの歌」の主旋律を奏でる。♪ドドレミ レドド、と一連のメロディが終わると、先陣を切ったその演奏を讃えるように、パーカッションのリズムが会場を満たす。多種多様な楽器が代わる代わる音を放ち、その響きはどんどん豊かに重なっていく。
カホンにジャンベなどの打楽器、エレキギターにカリンバと通常のクラシックコンサートでは使われない楽器も多く、ときには民族音楽のように、ときには和風に、ときにはロックに聴こえる。これまで聴いたことがない、ワールドワイドな第九だ。
ともにつくり楽しめるエンタメを
「Earth ∞ Pieces」を企画発案したのは、スローレーベルの芸術監督であり、東京2020パラリンピック開閉会式の企画・演出振付を監修した栗栖良依(くりすよしえ)さん。この数年で「パラ」や「インクルーシブ」といった冠のついた舞台は増えてきているが、一般的なエンタメや舞台芸術の世界では障害のあるパフォーマーが舞台に立つことはまだまだ困難なままで、二極化が進んでいる。そこで、障害の有無を超えて舞台を「ともにつくる」こと、障害のある人とない人がともに歩み寄り成長する機会をつくろうと考え、パラリンピック終了後2年かけて「Earth ∞ Pieces」を準備してきたという。
日本を含む世界の先進諸国が目指す「持続可能な世界」SDGs達成目標の2030年まで約6年をかけ、1公演ごとに多彩な個性をもつ人々との出会いと別れを繰り返し、いまだかつて誰も見たことも聴いたこともない第九を奏でることに挑戦する計画だ。
その記念すべき第1回であるワールドプレミアのプレイヤーは、2023年12月に公募した。音楽のジャンルやプロ・アマ、楽譜が読める・読めないといった条件もなく、障害の有無、国籍、言語も不問。さらには、通常のオーケストラで演奏される第九では用いられない民族楽器や自作楽器、コップやクッションなど身の回りの道具を叩く、振るなどして音を出すことによる参加も可とした。
通常の演奏会では、プレイヤーが何度も集まって練習を重ね、完成度を高めていく。そうして練られた演奏は人の心を打つ素晴らしいものだ。しかし一方で、身体に障害があり気軽に外出できない人、時間や体調に制約がある人は参加が難しい。「Earth ∞ Pieces」を“事前練習なしの1日完結型音楽会”にしたのは、「誰かと一緒に音楽を奏でる喜び」から取り残される人を出さないための一つの方法だ。
多彩で多才な人が集まって奏でる
実際に、オーディションによって選ばれた29名のプレイヤー(音楽会当日は体調不良のため1名欠席)は本当に多彩な顔ぶれだった。プロの音楽家もいれば、演奏するのは今回が初めてという人もいた。目の見えない人や車いすを使っている人、ダウン症や脳性麻痺の人もいれば、子育てや介護、仕事で忙しく演奏を諦めていた人もいた。そして、今回の演奏には蓮沼執太(はすぬましゅうた)フィルやフルフィルの活動に参加するイトケンさん、三浦千明さん、宮坂遼太郎さんもサポートミュージシャンとして参加した 。
こうした背景も音楽のジャンルもバラバラのメンバーの演奏を音楽としてまとめあげたのは、東京2020パラリンピック開会式でパラリンピック讃歌の編曲を手がけた音楽家の蓮沼執太さんだ。応募時にプレイヤーから送ってもらったデモ動画や一人ひとりの個性、リクエストをもとに、いつ誰にどんな音を出してもらうかという「音楽の設計図」を作成。音楽会の当日の昼に公開リハーサルを行い、夜に本番を迎えた。2月に一度オンラインで顔を合わせたというが、実際にこのメンバーで集まり音を合わせて演奏したのは音楽会当日が初めて。そして、この日が最後となる。
前半の演奏中、会場内を見渡すと、肩を揺らしリズムを取っている人、楽しそうにステップを踏んでいる人も少なくなかった。自分も演奏の輪に入り、この1日限りの楽団の一員になりたい。そう思わせる、はつらつとした演奏だった。
そんな想いを読み取ったかのように、蓮沼さんが曲の合間に「今日ここに集まった人は全員参加するというルールなので……」と話すと、聴衆はクスクス笑いと拍手で応答。後半では合唱隊がドイツ語で歌う「喜びの歌」部分を、聴衆は「ラララ」で参加することになった。
そうして始まった後半の演奏は前半よりさらに勢いを増し、全身の細胞がふつふつと湧き上がるような、生き生きとした喜びに満ち溢れていた。この日初めて顔を合わせ、この日のうちに解散するメンバーによる、この日限りの特別な音楽会。奏者も歌手も聴衆も、その場にいた人全員が大きな音楽を構成するpiece(ピース、一部)になる。演奏が終わると、会場は割れんばかりの拍手で包まれた。
ベートーヴェンの思想を体現した、新しい時代の第九
ここで少し、そもそも第九とはどんな背景を持った曲なのかについて触れたい。「喜びの歌」で有名なベートーヴェンの交響曲第九番は、通常の交響曲と同様に4つの楽章からなる。第4楽章ではそれまで演奏してきた第1〜第3楽章のテーマを次々と否定したのち、バリトン歌手が「おお友よ、このような旋律ではない!もっと心地よいものを歌おうではないか もっと喜びに満ち溢れるものを」と高らかに独唱、「喜びの歌」の合唱が始まるという構成だ。
「喜びの歌」の元となったのは、フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄す」。フランス革命がめざした「自由・平等・友愛」の理想が込められた詩で、ベートーヴェンは学生時代にこの詩に出合い深く感動。「いつかこの詩に曲をつけたい」と考えるようになり、約30年後、聴覚を失うという絶望を乗り越えて第九を完成させた。
当時、交響曲に独唱や混声合唱を入れること、シンバルやトライアングル、大太鼓などの楽器を使用することはめずらしく、メロディや構成も革新的で話題を呼んだという。ベートーヴェンは、すべての人々がつながり兄弟となる喜びを表現するには、これまでの伝統的な音楽のやり方では足りないと思ったのかもしれない。そして、より多くの人と一緒にこの音楽をつくりあげたいと思ったのかもしれない。
そうした背景を踏まえて考えると、従来の音楽会の常識を覆し、多様な人が共奏する機会をつくる「Earth ∞ Pieces」の挑戦は、とても第九らしく、ベートーヴェンの思い描いた理想を体現していると言える。もしベートーヴェンがこの演奏を聴いていたら、どんな感想を抱いただろうか。
「Earth ∞ Pieces」のチャレンジは続いてゆく
音楽会終了後、蓮沼さんは「当日になるまでわからないことは多かったけど、わからないことは楽しいことだと思ったし、想像していたよりももっとすばらしい演奏になった」と、栗栖さんは「初めての試みなので人が集まるか心配していたけれど、プレイヤーも観客(サポーター)も予想以上に集まってくれて、こうした機会を必要としている人が多いことの証明だと思った。自信を持って今後も続けていきたい」と話していた。
「Earth ∞ Pieces」は今後も1公演ごとにプレイヤーを募り、1日限りの音楽会を積み重ねていく。2030年までに何回開催するのか、次はいつどこで行うのかは未定で、出会った人たちと一緒にこのプロジェクトをつくりあげていきたいと考えているという。観客として参加した人が次はプレイヤーになったり、プレイヤーが2度3度と参加したり、企業パートナーが増えたりと、回を重ねるごとに広がりを見せていくのではないだろうか。
ライターとして取材に行った私自身、何か自分にも奏でられそうなもの、楽器がわりになりそうな道具はないだろうかと、演奏会以降ずっと身の回りのものを眺め、ときおり叩いたりはじいたりして音を確かめている。
字幕なし版
字幕付き版
Information
「Earth ∞ Pieces(アースピースィーズ)」
ベートーヴェンの「喜びの歌(第九)」を題材とし、1公演ごとに多彩な個性を持つプレイヤーとの出会いと別れを繰り返しながら、国際社会共通のSDGs達成目標である2030年までの約6年をかけて、未だかつて誰も見たことも聞いたこともない「喜びの歌」を奏でることにチャレンジするプロジェクト。スローレーベル芸術監督の栗栖良依が企画発案・監修を、音楽家の蓮沼執太が音楽監督を務めている。
このワールドプレミアをリハから本番までを追ったドキュメンタリー映像を中心に展示するイベント『Earth ∞ Pieces—in transit』 が、東京・銀座Sony Park Miniにて2024年5月9日から22日まで開催されます。
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