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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (2/3)

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【写真】金川さんのシルエットが電気の灯った建物の窓辺から外を覗く様子

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写真家・金川晋吾さんが考える、人を「好き」になること、恋愛のかたち (2/3)

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(更新日)2023年04月28日

(この記事について)

失踪を繰り返す父の存在を写真でとらえた作品シリーズ〈father〉などを発表している写真家・金川晋吾(かながわしんご)さん。そのまなざしは、社会のなかで“当たり前”とされる典型的な関係性を越え、自己と他者とを結びつける複雑な要素そのものに注がれているように映る。そんな金川さんが、人を「好き」になることについて、いろいろと思っていることがあるという。人を愛するとはどういうことなのか、人とともにあるとはどういうことなのか。自らの“しっくりこなさ”に向き合いながら、日々を生きるなかで湧き起こる戸惑いや想いを綴ってくれた。

本文

【写真】車窓に金網のついた水色のワゴンを背景に、道路脇の柵に右手を置き、正面を向いている金川さんの様子

「好きな人はいるの?」という問いかけに答えられない

私がこんなふうに感じたり考えたりするのは、私が他人に対してどういうふうに好意を抱くのか、ということと関係していると思います。

これはまだ自分でもうまく把握できてはいないのですが、私は「好き」ということ、その言葉の使われ方に、なんとも言えないしっくりこなさを感じています。これは、ここ数年で感じるようになっています。以前はそうでもなかったと思います。

「今、好きな人はいるの?」と問いかけられることがあります。今、私はこの問いかけにスムーズに答えることができなくなっています。「好きな人はいるの?」という問いかけの意味が、わかるようで、よくわからなくなっています。

他とは一線を画したまったく異なる特別な好意というものがあって、しかもそれは単に他とは異なるということではなくて、質的にも異なり、他の好意よりも上位に来るとされている好意というものがあって、「今、好きな人はいるの?」と言っているときの「好き」は、そういう特別な領域の好意のことを言っているのだろうということはわかります。

ただ、私にはある一線を超えた特別な領域としての「好き」というものがよくわからないというか、そんなふうにはっきりと境界線を引くことができません。なので、この問いかけにスムーズに「はい」か「いいえ」で答えることができません。私はそんなふうには、人のことを「好き」にはなりにくいのだと思います。

ただ、他人に対して好意を抱かないわけではありません。むしろ、素敵だな、魅力的だなと思う人なんて際限なくいます。そして、その人に対して好意を抱き、親密になりたいと思うことも際限なくあります。でもというか、だからこそというか、「この人さえいれば他はいらない」とか、「この人でなければ絶対にいけない」みたいには、私は思いにくいのだと思います。自分にはそういう性質や傾向があるのだと思います。

【写真】スリットの入った黒いボトムスを履いた金川さんが、足を組んでベンチに座っているその足元の様子

一般的に、誰かを「好き」になるということは、もう他の人を好きではない、好きにはならないということを意味することになっていて、また、そういう前提がなんとなく人々のあいだで共有されていると私は感じています。

でも、自分にはこの前提が共有しづらいです。私にとっては、誰かを好きになることと、その人以外の人を好きになったりならなかったりすることは、まったく関係がないとは言わないけども、やっぱり別のことなのです。

もうひとつ。一般的に、誰かを「好き」になったとしたら、その人をその後もずっと変わらず終生好きでい続けること、不変的で永続的な愛を目指すことになっていると思います。不変的で永続的な愛こそが本当の意味での愛であり、途中で好きでなくなったとしたら、それは本当の意味では「好き」ではなかったことになる、そういう考え方がなんとなく共有されていると感じます。このことにも、私は乗り切れなさを感じています。

不変的で永続的な愛を目指すということは、「もう他の人は好きにならない」という前提とは少しちがって、なんとなくの理想として人々のあいだで共有されていることのような気がします。実際のところ、多くの人は、終生変わらず一人の人のことを好きでい続けるなんてあまり現実的ではないと感じているのではないでしょうか。

ただ、多くの人が現実的ではないと感じながらも、そうやって、不変的で永続的な愛を目指す方向にとりあえず向かってしまう、向かうことができるのは、一線を画した特別な領域としての「好き」というものをなんとなく理解できるから、というのはあると思いますが、でも、そういうことだけでもないとも思っています。

多くの人がとりあえずそっちに向かうのは、それ以外のやり方のモデルが存在していなくて、それ以外のやり方をイメージすることがむずかしいからではないでしょうか(いや、多くの人がどう感じているのかなんていうことは、本当のところよくわからないしどっちでもいいことです。ここで言っている「多くの人」のなかには、実は私も含まれています。これは私の実感でもあるのだと思います)。

必ずしも多くの人が一線を画した特別な領域としての「好き」を経験しているわけではないけども、そういう「好き」についてのイメージはこの世界に氾濫しまくり、散々語られまくっているので、そういう「好き」こそが「一般的」なのだと思いやすいというのはあると思います。また、不変的で永続的な愛を目指すほうが、ややこしくなくてシンプルですっきりとしているように見えるので、そういう意味でそっちのほうが「現実的」に見えるというのもあるかもしれません。

【写真】自分が映った鏡に向かいカメラを向けている金川さんの写真

私は、「私はあなただけをずっと好きでい続けます。だから、あなたも私だけをずっと好きでい続けてください」というようなやりとりからは逃げだしたくなります。こんなことは言いたくもないし、言われたくもないと思っています。私には、こういうやりとりに愛を感じることがむずかしいです。

自分にとって親密な関係の人が、自分以外の人とも親密な関係をもったとして、そのことによってその人がよりよい状態でいられるなら、それはやっぱりよいことだと思います。そのことをよいこととして受け入れたいし、自分の場合も受け入れられたいです。このことは、私にとってとても重要であり、本質的なことです。私はこのことを理念としてそう考えているというよりも、「今のところ、自分という人間はそういうふうになっている」と言ったほうがいいのだと思っています。これは現在の私にはそういう性質や傾向があるということであって、正しさとして他の人に押しつけたいわけではありません。

勇気を持って、大胆に言い切ってしまうと、私は「好き」だとか「愛」だとかいう言葉によって、相手の自由を奪うこと、それがさも当然のこととされてしまうことに、しっくりこなさを感じているのだと思います。

ただ、こんなことを言っていると、他人から「あなたはまだ誰かのことを、本当の意味で好きになったことがないのかもしれないね」とか「本当に好きな人に出会ったら変わるよ」とか、言われることがあります。いや、実際に他人に言われなくても、そういう声が自分の内側からも聞こえてきます。「本当の好き」という幻想は、自分のなかのかなり深いところに根づいています。そして、「本当の好き」という幻想は、自分自身に対するいくつかの疑念を抱かせます。今自分が感じている疑念を整理すると、とりあえず次の3つになります。

まずひとつ。私は、「自分は『本当の好き』から逃げているだけなのではないか」と思ってしまっているところがあります。「何かいろいろと考えたり言ったりしているけども、結局のところ自分は誰か一人と深く関わること、抜き差しならない関係になることを恐れて、そこから逃げているだけなのではないか」という疑念を、私は自分に対して抱いています。

ふたつめに、「『本当の好き』に至れない自分は、他の多くの人に比べて何か欠損を抱えているのかもしれない」と思ってしまっているところがあります。「自分はとても薄情な人間、愛が希薄な人間、刹那的な人間なのかもしれない」という疑念を、私は自分に対して抱いています。

さいごに、これは単純に「本当に好きな人に出会えば、自分も変わるのではないか」と思ってしまっているところがあります。「まだ、そういう相手に出会っていないだけなのだから、がんばって探せばいいんだよ」と自分を励まそうとしている自分がいます。 

これら3つの疑念は、程度の差こそあれ、今の自分を否定すべきもの、乗り越えないといけないものだと思っている点では同じだと思います。誰か一人の人だけをずっと好きでいることが「正しい」ことであるにもかかわらず、自分はその「正しい」ことが実行できていないと思っているわけです。

でも、言ってしまうと当たり前のことですが、愛の実践において、誰もがおこなうべき正しいひとつのやり方なんかが存在するわけではありませんよね。自分に合った、自分なりの愛の実践があるはずです。ただ、私は自分なりの愛の実践をおこないたいと思いながらも、他の人はあまりそれをやっているようには見えないので、自分のほうが間違っているのではないか、妙な奴だと周りに思われないかと、怖気づいたりしているのだと思います。でも、本当は怖気づいたりしたくはないんです。