社会に決められたレギュレーション
まず、はらださんのはじめての著書『日本のヤバい女の子』が生まれた背景をお聞かせください。
こつこつと書き溜めていたブログがもとになっています。2009年に芸術大学を卒業し、大阪にある制作会社に就職したのですが、「女性だから」という理由でお酌を求められたり、出張で取引先からホテルに誘われそうになったり……。そこで、世の中にはジェンダーに根ざしたレギュレーションが存在するんだと身をもって感じたことがきっかけでした。
以前から、そういった不均衡を感じていた?
いえ、むしろ無自覚でした。自我が芽生えたのも26歳くらいだったので(笑)。でも、振り返ってみると、芸術大学も、学生の大半が女性なのに、教授の多くは男性だったり、雇用や評価の機会も、圧倒的に女性より男性にひらかれていたりする。ただ、そうした状況に違和感を覚えつつも、 自分自身に紐づいたこととしては認識していなかったですね。それが、就職とともに、我が身に降りかかってきたという。
一方で、実は私の母もフェミニストで。子どもの頃、洗濯用洗剤のテレビCMを見ながら、よく「なんで女の人しか出てこんの!」と怒っていた姿が印象に残っています。家事=女性の仕事という社会通念への憤りに、私自身も幼心に「たしかになぁ」と納得していましたね。
気づかぬうちに芽生えた視点なのかもしれませんね。そのまなざしが、民話や神話に登場する女性たちとつながったのはどうしてだったのですか?
父が1856年から続く煎餅屋を営んでおり、古いものが伝え継がれ、淘汰されることに関心があったんです。そこで、「昔の女の子たちはどうだった んだろう?」と物語を調べていくと、自分自身にも通じてくるような感覚が湧いて。たとえば、夫婦円満の教訓として知られる「おかめ伝説」。大工である夫のミスを、妻のおかめが 機転で助ける話なのですが、おかめは夫の名誉を守るために自死するんですね。現代の視点からすると「そこまでする?」と思えるほど衝撃的な話ですが、「女性だから」というレギュレーションと、それにいつの間にか取り込まれている女性のあり方は、今も昔も変わらないのかもしれないと感じました。
「何もできなかった」と思わずに済む方法
刊行後、どんな反響がありましたか?
当時は、SNSやデモを通じて性被害を告白する#MeToo運動が世界中に浸透した頃でした。これまで「私」だけが抱えていた課題を、「私たち」の課題として語れることで、勇気づけられた人も多かったんじゃないかと思います。『日本のヤバい女の子』もその時流にあり、歴史上の女の子を通して、自らの課題と向き合うための糸口を見つけたように感じていました。
ただ、ある読者の方からは「たしかに勇気はもらった。でも、明日も会社に行かねばならないし、 平穏を脅かす上司は出社してくる。どうしたらいい んですかね?」という声もいただいて。なるほど。 共感にとどまらない、次の一手を考えていく必要があると思ったんです。
それが、続編へとつながっていったんですね。
そうですね。『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房、2019年)では、対抗でも抗争でもない、かと言って、やられっぱなしでもない、“静かなる抵抗”という言葉が生まれました。「抵抗」というのは、必ずしも拳を上げて、声高らかに意思を訴えることだけではないと思うんです。もちろん、時には、そういう行動も大切。だけど、即座に声を出せない人もいますよね。そんなとき、「何もできなかった」と落ち込まずに済む方法があるといいなと考えたんです。
この本には、松浦佐用姫(まつらさよひめ)という女の子が、恋人と離れなければならなくなり、悲しみのあまり石になるという話が出てきます。石化するというのは、「恋人と一緒にいられなくなった」という状況に打ちのめされた、受動的な行為に映るかもしれません。でも、これを能動的な行為として捉え直してみると、石って人間より寿命が長くて、理不尽な世の中に「何百年も消えずに存在し続けてやる」と、静かに怒りを表す態度ともとれる気がして。
たしかに、「私の怒りをなかったことにはさせない」という意志が感じ取れるようにも思います。
私が本を書いているのも、自分自身がキレて往来で暴れまわらないようにするためでもあるんですね(笑)。フェミニズムの議論は進んできてはいるものの、まだまだ社会は追いついていない。生活レベルでは、日々議論にまったく至らない「おかしい」出来事がたくさん起こっているのが現状です。
私自身も、仲のいい女友だちと学生時代からルームシェアをしていて、もう18年になるのですが、「いつまで一緒にいるの?」と聞かれることに違和感があって。友情であれ恋愛であれ、女性同士は“未達の関係”だと扱われているように感じてしまうんですよね。そして、それが男女のペアであれば、「いつ結婚するの?」という問いかけになる。
本を通して、社会に潜むそうした手つきを浮き彫りにすることも、一種の抵抗だと考えています。もちろん、それは必ずしも表現することでなくていい。 嫌だなと感じたときに、すぐに何も言い返せなかったとしても、その感情を抱いた理由を考えること、誰かと話すこと。あるいは、自分のなかで忘れずに考え続けることも、社会のレギュレーションへの抵抗になる。そうやって「抵抗」の解釈を広げることが、自分自身をエンパワーメントすることにつながるのではとないかと考えています。
サステナブルな抵抗
「抵抗」の解釈を広げていくことは、多様な人のあり方を肯定することにも通ずるように感じます。
そうですね。一方で、自分の反応を示すということは、他者からの反応を受け取るということでもあって。近年、フェミニズムの界隈も、ようやく「声を上げていい」という潮流になってきました。でも、深刻な訴えかけが「マジレス乙」と揶揄されたり、無視されたりする現実もある。そんな反応もあると頭では理解しつつも、いざ直面するとものすごく疲れるし、元気がなくなってしまいますよね。怒らざるを得ないから怒っているのに、“怒り”だけが取り沙汰され、「生きているのがつまらなさそうですね」と見なされてしまうのは、二重に損をしていると感じます。
怒りの根本を伝えるはずが、疲弊して、逆に想いを表出しにくくなってしまうかもしれません。
そこで、自分たちが怒り続けることのできるサステナブルな抵抗の方法を生み出したいと、「深刻なことをふざけながら考える」をテーマに書いたのが『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA、2021年)でした。
この本では、成功体験談ならぬ失敗体験談を綴っているんです。「あ、これ、あの本で読んだやつだ!」と経験則的に取り入れて、自分が体験した嫌なことに対して「これは怒っていい出来事だ」と認識してもらえるといいなと。
日々出くわすモヤモヤした違和感にツッコむにも、元気がいりますよね。そうじゃないと、「もういいや」「またか」と、諦めて受け流すことに慣れていきかねません。でも、参照事例がひとつでも多ければ、その想いをスルーせずに済むとか、自分がとった行動を「抵抗と捉えていいんだ」と思えるようになるかもしれない。そういった、元気をキープするための実践です。
「怒る」という行為は一見ネガティブに聞こえるかもしれませんが、自分の意思を無下にしない、生きるためのポジティブなアクションだと考えています。