待つだけの人生からの脱却
佐賀県にある〈医療法人清明会 障害福祉サービス事業所PICFA〉。ここで人一倍時間に厳しいのが安永さんだ。10時の朝礼、12時の昼食。それを一分一秒遅れるのを嫌う。時間に厳しい男なのだ。
〈PICFA〉代表の原田啓之さんは、安永さんに出会った当時のことを話してくれた。「あの頃、彼はある福祉施設で調理補助をしていました。ですが、彼に向いた仕事が少なかったようなんです」。安永さんは「ちょっと待っといて」と言われ、そのまま何時間も待っていたという。毎日何もせず、ずっと待っている。そんな日々を送っていたそうだ。「この子はずっと待つのが人生なのか」。見かねたご家族が〈PICFA〉にやって来た。「できれば、この子を通わせたい」と。
しかし、ご両親によると絵を描く経験が少ないという。もし、PICFAにやって来ても何もせず、椅子に座って時間が経つのを待っているのなら、安永さんにとっては不幸だ。合わない仕事となんら変わりはない。
「大切なのは絵が好きかどうか。表現をしたくなければ、PICFAでは受け入れることはできません」
そこで、安永さんには2週間の実習をしてもらうことになった。絵を描くことはなかったとのことだったが、絵の具を渡すと迷うことなく描き始めた。はじめから、画風は確立していたという。
「すごいな……」と原田さんは唸った。
これは仮説ですが、と原田さんは言う。
「自閉症の方は言葉が出にくかったり、単語だけで会話をしたりすることがある。ですので、子どもの頃からイラストなどの視覚要素を用いたコミュニケーションを用いることがあるんです。それまで絵を描く経験がなくても、見ている世界を自然と絵に変換できるのかもしれません。……そんなことあるかい! と安永さんに言われるかもしれませんが(笑)」
淡々と絵を描き続ける安永さんに、原田さんは「楽しい?」と尋ねた。原田さんの大切な質問だ。安永さんは無表情で楽しいと答えた。だけど、その無表情の中に安永さんの覚悟を見たそうだ。
「僕の感覚でしかないけど、楽しいっていう言葉を発した安永さんの中に“これを続ける”みたいな覚悟を見た気がしました」
無表情の中の豊かな感情
安永さんの描く人物の顔かたちには、あまりバリエーションはない。男性は眉が太く、女性はまつげという特徴があるくらいだ。ただ、じっと絵を見ていると、表情が見えてくる。笑っていないのに笑っているように見えたり、なにか考えているようにも見えてくる。
「実は表情豊かな絵なんです。そこに彼の心の豊かさを感じますね」と原田さんは言う。
冒頭に書いたとおり安永さんは時間に厳しい。時間通りに原田さんが朝礼をはじめなかったり、食事時間が遅くなったりすると安永さんは「時間ですよ」と原田さんに注意する。
時々、原田さんはそれを無視することがあるそうだ。そうすると、安永さんは「時間ですよ!」と言いに来る。何度も執拗に言う。それでも無視することがある。もちろん、意地悪ではない。「予定がずれることがある」ということを安永さんに経験してもらい、自身の中に時間的な許容を持ってもらうためだ。
「たとえば大きな舞台でライブペイントをすることだってある。イベントの時は決まった時間に食事ができないことがあります。移動する際、鉄道や飛行機が遅れることもあるでしょう。外の世界では何が起こるかわからない。だけど、食事を1時間、休憩を1時間ずらせたら、トータルで1日に数時間ずらすことができる。親御さんも助かりますしね。なにより僕は、大きな舞台で時間に囚われてしまった安永さんを、見てもらいたくない。格好いい安永さんの姿を見てもらいたいんですよね。この作業は安永さんの人生を広げる」
安永さんを見ると、大きな体を机の前で屈め、一心不乱に賑やかな絵を描いていた。大きく、静かな男、安永さん。だけど、彼の代わりに絵が話す。それも多弁に話す。この言葉を聞き取るのは、絵を見る私たちの力なのかもしれない。