あふれ出す伊藤峰尾という名前の群れ
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《無題》/紙、油性ペン/ 210×235mm /制作年不詳/写真提供:パッソ
毎朝出勤するサラリーマンのように、背広にネクタイ姿で地域生活サポートセンター〈パッソ〉(福島県)にやってくる伊藤峰尾さん。専用のデスクで静かに作品を生み出す。大きな声を出している人やきちんと椅子に座っていない人を見かけると、注意したりする姿はさながら部長。さすがは〈unico〉(ウーニコ)の所属作家として、最初に〈はじまりの美術館〉で個展を開催しただけのことはある。
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懐かしいスタイルの携帯電話を手にする伊藤さん。
伊藤さんの創作の原点は、自分の名前を書く練習だった。字を教えたのは父親で、小学校に上がる前にはひらがなで書けるようになった。2003年に父親が亡くなり、サインをすべき書類を目の前にして、伊藤さん自身が「書く」と言ったことから、漢字で名前を書く練習が始まった。それが58歳になった今も淡々と続いている。
紙に覆いかぶさるように顔を近づけ、ときにはひらがなで、漢字で、一文字一文字じっくり時間をかけて書き込む線は迷いがなく伸びやかで、熟練の職人仕事のようでもある。そして、その名前の連なりは、まるで生き物のように有機的だ。彼の手から名前はひとつとして同じ形がなく、それらが集まることで、文字を超えたグラフィックデザインとなる。
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重なり合う伊藤峰尾という漢字。
2010年、伊藤さんの作品がパリで開催された「アール・ブリュット・ジャポネ」展に出品された。後にその作品を見た俳優のイッセー尾形さんは、「まるで楽譜のようだ」と衝撃を受け、そこからひとつの短編を創作した。伊藤さんの作品には、見るものの想像力を掻き立てる力があるのだ。
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《無題》/和紙、油性ペン/330×239mm/制作年不詳/写真提供:パッソ
彼の持ち味は文字だけではない。名前の作品と同様に、人の顔だけを連続して描いた作品も迫力満点。ひとつとして同じ顔はなく、ちょっと困っていたり、眉間にしわを寄せていたり、皮肉っぽく笑っていたり。それぞれ表情豊かでとても生き生きしている。
身近な支援員や写真などを見ながら描いた人物も、伊藤さんならではの視点とデフォルメによって、思わずクスッとしてしまうようなおかしみに溢れ、”伊藤部長”の他者に対する優しいまなざしが伝わってくる。
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《ウルトラマン》/紙、油性ペン、水性ペン/180×257mm/2019 年/写真提供:パッソ
人物の中でもよく描いているのがウルトラシリーズの登場人物。ウルトラマンはもちろん、ウルトラマンレオやゴドラ星人、キングジョーや怪獣のダダなど、黒一色のものもあるが、カラフルなものが多い。「ウルトラマンが好きなんですか?」と尋ねると、「う~うとらの~」とノリノリで歌い始める伊藤さん。グループホームへの送迎の車中でスタッフと一緒に口ずさんだり、みんながカラオケを楽しんでいると、伊藤さんもマイクを手に歌ったり。マツケンサンバが流れると踊り出し、周囲を盛り上げる宴会部長に早変わりするとか。
伊藤さんの作品を生で見ることができるように
「こだわりが強く、以前はちょっと気難しいところもありましたが、年を重ねるとともに、人柄が丸くなってきた印象があります。スタッフが『これ描いて』というものも、スムーズに描いてくれるようになりました。パッソを見学に来られた方にその場で絵を描いてプレゼントしてくれたりもするので、伊藤さんに直接会って人柄をわかっていただけるような展示の機会をまた作れるよう、私たちスタッフからもいろいろ提案していきたいと思っています」とスタッフの星 尊さん。
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伊藤さんの持ち物には「峰尾印」が貼られていた。
最近は、持参したお弁当を食べた後、お弁当箱を洗うことに集中し過ぎて、机に向かって創作する時間が減っているというが、伊藤さんの作品には根強いファンが多いだけに、次なる展覧会が待ち遠しい。
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未来から過去にハンコが押された伊藤さんの出勤簿。