アンパンマンとトラックと割り箸と
音楽が鳴っている。扉を開けると、部屋の中央に片肘つきながら寝転がって絵を描いている一人の男性がいた。割り箸1本を手にしているその男性は、墨汁の入った瓶にその割り箸を入れて墨をつけた後、白い画用紙の上を勢いよく滑らせた。紙の上に飛び散る墨汁の滴、迷いのない線。どこまで意図して描いているのだろう。何も考えず無心に割り箸を紙に滑らせているようにも思えるが、擦れ合わさる線がやがて密度を高めていくうちに、人の顔が立ち上がってきた。そして描いた線上を流れに添って何度も何度も塗り重ねる。男性の名は、岡元俊雄さん。自閉症である彼が1996年から〈やまなみ工房〉に所属し、このスタイルで絵を描き始めたのは今から10年前のこと。当時からずっと見守り続けてきた施設長の山下完和さんは言う。
「最初の10年は岡元さん、いら立ちを隠せなかったんです。誰かに干渉されるのが好きではないということは感じていたのですが、どうしたら岡元さんが穏やかに過ごせるのかをずっと考え続けて、あれやってみよう、これやってみようと提案するのですが、どれもうまくいかない。そんな中、ある日ドライブに連れ出してみたんです。そうしたら岡元さんが横を走っているトラックに強い興味を持ち始めたのがわかって、何気なくトラックを描いてみたら?と画材を用意して勧めてみたら、次々と絵を描き始めたんです」
以来、ドライブの度にすれ違うトラックに目を輝かせる岡元さんは、フロントからサイド、バックに至るまで、心に刻んだトラックを墨汁と割り箸1本で緻密に描くようになる。
本人の“ありのまま”でいられること
そんな岡元さんに〈やまなみ工房〉はプライベートなアトリエ空間を提供した。他者と交わることが苦手な岡元さんにのびのびとトラックの絵を描いてもらうために。これは、利用者一人ひとりがやりたいことを自由にできる環境作りに徹底している〈やまなみ工房〉の姿勢でもある。粘土や絵画、刺繍や刺し子など。工房には岡元さんのほかにも創作活動を行っている利用者がたくさんいて、利用者の手から生まれた作品は、工房内に併設された〈ギャラリーgufguf〉をはじめ、国内外のギャラリーや美術館が主催する展覧会にも出展されている。
「岡元さん、この一人の空間で集中しているときはトイレも行かずにずっと描き続けています。それ以外はときどき自分の好きな言葉を紙に書いて、スタッフとコミュニケーションを取りにきてくれることもありますね。あとは描きながらぐっすりと寝ていることも(笑)」
たとえばボブ・マーリー、マイルス・デイビス、スティービー・ワンダー、オードリー・ヘップバーン。現在では人物を中心に描くようになっている岡元さんは、1枚の絵を完成させるのに大体、2週間ぐらいかける。完成した人物の絵の数々を見ながら驚いたのは、どの絵も顔の造形をちゃんと掴んだ上で、同時にその造形から解放されているような、しなやかな個性があるということ。そこに彼の非凡さを垣間見る。
「10年経って岡元さん、ようやく落ち着いてよかったねって周りの人には言われます。でも僕自身はそうは思えなくて、10年もの間、彼の想いに気づけなかったということだという悔しい気持ちもあるんです。座って描きましょう。音楽の音は小さくしましょう。みんなと一緒にやりましょうとか、それまで僕らが制約と制限を与えていたんです。それが今、ようやく岡元さんにとってのありのままに辿りつくことができた。この一人の部屋で、アンパンマンの音楽を聴きながら、寝転んで描くことだったんですよね」
岡元さんがどんな意図でこの絵を描いているのか、その胸の内はわからない。だからいっそう観る側は試される。自分の言語と感情で、目の前にある絵を読み解く必要があるから。「アンパンマン!」。岡元さんの声が部屋に響く。私は「アンパンマン!」と返した。岡元さんの絵の躍動感、その素晴らしさをうまく言葉にできず、アンパンマンに託すしかできない自分をふがいなく思いながら。