Q:村本さんは、福島や熊本などの被災地、沖縄の高江、広島原爆ドーム、朝鮮学校など、気になる場所へと行くことを大切にされています。
今の時代、スマホを開けば簡単に情報が入りますよね。でも、それって誰かの手で加工されたもの。
昨年の東京オリンピックでものすごい数の弁当が捨てられましたけど、この国では食べ物は加工された「もの」なんですよね。だから捨てられる。本当だったら自分の手で動物を殺すところから始まって自分たちの口に入れるけど、いつの間にか僕らはそこにある「もの」にお金を払って、交換して、おなかを膨らませることを繰り返している。すると、屠殺に携わることもないし、興味もなくなってしまう。
同じように新聞やテレビを見て、情報を頭にいれているけど、その土地に行って、生のもの、血や肉を体にいれることによって、すごく生々しい言葉がでてくるんですよね。
Q:だからこそ、そうした場所に行ったあとにやる漫才はいつもより熱が入るしウケることが多い。
アンネ・フランクのことを想像できても、その痛みは実際に自分が体験したことのない「加工品」。ものをつくる人間は、実際に足を運んで生のものを肌で感じてこそ、物語をつくることができる。
この間、函館に行ったんですが、石畳の坂道が海まで続いている場所で、観光客が集まって写真を撮っていた。なぜってそこは雑誌に載っている風景だから。でもそれは自分の目ではなく、人の視点を借りた景色。でも、自分にとってもっと素晴らしい景色があるはずだし、それを見つけること、歩くことが楽しさなんです。
Q:生の感情にはパワーがある。舞台の上で村本さんはときに怒り、まくしたてることもある。楽しいことばかりを話題にしているわけではないのに笑えるって、改めて考えると不思議に思いました。
笑いに変えないと無視されてしまうからね(笑)。
今日もここまで来るときに、沖縄の人たちが「基地建設反対」「辺野古工事するな」って抗議をしていたんですよね。
それはひとつの表現なんですが、誰も立ち止まっていなかった。僕の場合、立ち止まってもらう手段が笑いだった。たまたま見つけたものだけれど、ずっと立ち止まってもらえなくて、やり続けてきたら、たまたまできるようになって、自分がイヤなこと、うれしいこと、引っかかったことを笑いにしたら、立ち止まって聞いてくれるけれど、滑ることもあるし、ウケることもある。
Q:話すのに夢中になって、たまに笑いを入れるのを忘れることもあるそうですね。
あります、あります。だいたい漫才って劇場でもらえる時間が10分間。そこでやりきらないといけないから全部決めているんですけど、独演会でやる場合、ネタは1~3割用意して、残りはその場でつくり上げていく。頭にある材料でやってみてよかったやつを、漫才にもっていったりする。その繰り返しです。
Q:ウーマンラッシュアワーでの緊迫感ある漫才と異なり、ソロの独演会はリラックスしたムード。村本さんが好きだというスタンドアップコメディはこうした雰囲気なのかと想像しました。
アメリカに行くと、よくバーに行くんです。そこには舞台があって、500円くらい払うと素人がお笑いをやったり、歌をうたったり、ポエムをつくって発表したりするんです。M-1で優勝したいとか、プロになりたいとか、金稼ぎたいという人ばかりではなくて、買い物袋をもった主婦が夫の悪口をマシンガンのようにまくしたてたりと、自分の言いたいことだけを言う。自分の意見を言う。すごく健全な場だと感じています。
日本だと、ジュラシックワールドみたいなセットのような場所の、限られた範囲で楽しんでいるかのよう。もちろんその中でも楽しいことはあるし、鳥かごのなかは安全だし安心。外に出たら、襲撃されるかもしれない。けれど、その分自由は得られる。そのほうが守られて表現を劣化していくより、人間として健全だなと思ったりしています。
Q:スタンドアップコメディは、社会へのカウンターパンチともおっしゃっていますね。
社会ってなにも政府や政治のことだけじゃない。吉本に軽度の脳性麻痺の鈴木ちえという芸人がいるんですけど、そいつが足を引きずって歩いていると、よく「かわいそう、代われるものなら代わってあげたい」とおばちゃんに声をかけられるらしいんです。でも、本人は「そもそも、おまえとは代わりたくない」と思っている(笑)。
彼女からしたら、それも社会へのカウンターパンチなわけですよ。障害者はかわいそうという前提でとらえる社会に対する。それは社会の一員である自分たちに向けられるものでもある。
人は、自分たちを強いものと弱いものにわけて、あの表現はいい、これはダメと決めつけがちだけど、表現ってある程度差別的であってもいいと思うんですよ。もっと、どろどろしていたっていい。
あるとき、知り合いの在日朝鮮人のおばちゃんに連れて行かれて、朝鮮学校へ行ったんです。独演会をしてくれっていわれて。そのとき、朝鮮人の前では「あのおばちゃんに強制連行された」って言って、日本人の前では「拉致された」って言い換えるとよりウケた。
これもカウンターパンチですよね。拉致に敏感になっている日本人の前では「拉致」、朝鮮人の前では「強制連行」と言うほうが、場が沸く。お互いすっきりする場所が違うんですよね。ふたつの世界が存在する。
Q:無数にそんな世界が存在する。
だからこそ、全員が表現者だと僕は思っている。全員が思っていることを発信したらいい。お笑いできるやつはお笑いやって、歌えるやつは歌う。子どものために料理をつくるのも立派な表現だと僕は思う。それを選べる選択肢があるといいのだけど、今この国は選択肢が少ない感じがしています。、
Q:表現者は舞台に立つ人だけ。自分は違うと思ってしまいます。村本さんは、素人を集めた舞台の企画もしていますね。
スタンドアップコメディって、プロのためだけのものじゃない。自分のモヤっとしたことを話すと気持ちいいし、すごくすっきりする。多くの日本人は、言いたいことをカラオケとか、誰かの歌にのせて歌っているけど、そのラブソングも自分のものではないけど、そこは見てみぬふりしながら、自分の歌のように気持ちをこめている。
でも、スタンドアップコメディはすべて自分の「歌詞」。ウケなくてもいいから、出演してみないかと声をかけたんです。吃音症や、小人症、ダウン症、電動車いすで生活している人、シリア人のジャーナリスト、小人症でミュゼットプロレスやっている友人などに。
Q:多彩なメンバー。聞くからにおもしろそう。
ほかにもシングルマザーとかいろいろな人がいました。そのなかに、ノガミさんという堅物おやじがいた。その人は新聞記者で末期がん患者だった。その彼が舞台の上で「抗がん剤と選挙は同じで、抗がん剤の副作用と同じように選挙もその副作用をいわないといけない」というようなことを話すんだけど、ノガミさんの奥さんが耐えかねて「そんなんだから、あんたはすべってるのよ」と舞台にあがってきて喧嘩のようになって爆笑が起こったりもした。それが一回目で、二回目のときノガミさんは入院していて会場に来られず「僕も行きたかったな」ってボイスメッセージをもらったんですが、そのあとすぐに亡くなってしまったんです。
みんななにかしら表現したいことがあるんですよね。こうして声を聞いていると、僕もほろっときたり、気付かされたりすることも多い。
障害者施設や老人ホームって町のはずれにあることが多くて、ダウン症の人はバスに乗っているところしか見たことがなかった。彼らは僕ら健常者と離れた場所にいたから、会ったときにかける言葉が見つからない。取って付けたような会話しかできない。
出演者のひとり、脳性麻痺のふうかちゃんは舞台で、ひとりで話すと言った。重度だからなにを話しているか聞き取りづらいから、僕が舞台にでて「ふうかちゃん、ひとりでしゃべるらしいです。大きな拍手で迎えてください」と呼び込みをしたら、第一声が「ひとりでしゃべるのは普通なのに、どうして拍手するんですか?」から始まったんです。革ジャンを着ていたから、「おしゃれだね、自分で選んだの?」と聞いたら「普通自分で選ぶでしょう」とも言われた。なにげなくした会話によって、何回も自分が刺されたんです。
Q:どう対応していいかわからないからこそ……。
そのとき考えたのが、俺は、彼女のことをどう見ているんだろうって。女を守らないといけないという男の声なのか、いや、そもそも女って守らないといけないものなのか、いやいや、女の人は女の人で守られないといけないと思っている人もいるわけで。そうしてみると、「誰かに寄り添う」って考えている人は、そのうちの7割くらいは見誤っていて、「ずれ寄り添い」が多かったりするのだろうなと。
Q:ずれ寄り添い?
弱者に寄り添う、障害者に寄り添うって、ズレズレなわけですよ。向き合うだったらわかるんです。ふうかちゃんに「私、ひとりでしゃべっているだけなのに、なんで拍手が起こるんですか?」って言われたときに、そこで傷つくべきなんです。
なのに傷つかないように、「だよね、そうだよね、では、しゃべってもらいましょう。どうぞ」という。
そんな世界で生きている人間は、そこそこの会話しかできない。そうじゃなくてもっと向き合う。なにがダメだったのか、もっと向き合ってぶつからないといけないって思いました。
Q:向き合うと、ときには傷つくことだってある。
傷つけることもあるかもしれない。一時期、誰も傷つけないお笑いをやらないといけないと思っていた。けれど、容姿のことを笑って傷つけるお笑いをするより、本当の意味での傷をつけないといけないと今は思っています。
傷つけるというのは、自分がはっとすること。それがお笑いで絶対大事なのに、何を笑いにするかよりも、とにかく笑えばいいという流れがある。笑いすぎたせいで、本質を失ってしまっている。
Q:「笑いは空気を刺してこそ」ともおっしゃっています。
空気の中にいて、空気に合わせている人が多い。今の時代、こんなこと言っちゃダメだよといわれることが多いけれど、ヒトラーの時代だったら、ナチスに迎合してユダヤに対して差別的なことを言うってことが、その時代や地域にとっての当たり前になる。俺は、もっといろんなやつに嫌われてもいいと思っています。空気を刺すということは、誰かを不安にさせるということで、水の中で誰かのビート板を取り上げるような行為ですから。本当は、みんながビート板なしで泳げるようになったら最高なんですが。
本当は全員にユーモアの装置がちゃんとあって、誰かを笑わすことができる。でも、その装置をずっと放置してるから、さびついて、お笑い芸人を頼ることになっている。楽しむこともそう。本当はプレステやスマホのゲームなんていらないんです。
友達同士で、ワイン片手にこれどう思う? あれはどう思う? とかの会話をすればいい。全員がこう思う、ああ思うといえる世の中になれば、楽しい表現者が増えていくし、そうやって楽しめる人を育てないと、楽しいお笑い芸人は増えないと思います。
Q:よほど気心しれた間柄でないかぎり、意見が対立する話や、政治の話題は避ける傾向にある気がします。
おとなになるにつれどんどん服を着込んでいって、十二単ぐらい厚着になる。この国の人はなかなか裸を見せてくれない。政治に無関心な人も多い。
さっき見た「辺野古基地反対」って路上で抗議活動をしているおばあちゃんたちは、一生懸命に三線を弾いているんだけど、誰も目を合わせようとしない。
冷笑しているほうがかっこいいという空気はある。ちょっと政治的なことをいうと「お前なんだかアツいな、アツ苦しいな」となる。でも、怒ったり、泣いたりという人間にある感情をなくしてしまったら、俺たちはコンビニのチェーン店のような紋切り型な人間になっていってしまう。
みんな同じような色で、おなじような商品をそろえていて、バックヤードでは醜いことを吐き出している。本当のところはわからないですよ、コンビニのバックヤードが醜いかどうかは(笑)。
Q:差別は違いを馬鹿にする、違うことを卑下する。でも、お笑いは違いを笑いにするともおっしゃっています。
違いは楽しいですからね。アメリカにおいての黒人たちのお笑いの強さって、違いというものをしっかりと笑いにしているわけです。どうして黒いバンドエイドはないんだ、それって俺たちは怪我しちゃいけないのかって。
日本における在日朝鮮人のことを、俺はうらやましいと思うときがあるんです。在日朝鮮人の人は、自分たちの境遇とかルーツを持ち続けようと、今も勉強をしている。関東大震災で行われた虐殺なんかが歴史のなかに埋もれていく中で、いまだに怒っている人もいる。
それがすごく興味深くて、この一生懸命怒っている人は自分となにが違うのか、同じなのかを一生懸命考えるんです。こうした違いは在日の人にだけにあるわけではないし、在日の中でもいろいろな違いがある。そもそも在日として分ける必要もないかもしれない。でも、その違いはそこにあって、笑いに変えられるからこそ、俺はやっぱりうらやましいと思う。
だから、俺はアメリカに行って、自分が「違う」存在になることを味わいつくそうと考えています。
Q:なるほど、アメリカに行ったら「日本人」というマイノリティになりますね。近いうち活動の場をアメリカに移し、スタンドアップコメディで笑いをとるという決心は堅いのですね。
はい、絶対に行きます。今の俺がアメリカに行ったら、なに言っているかわからない状況が続くでしょうから、海に潜ったアメリカ人のほうがよっぽど伝わると思いますね。それがちょっと楽しみでもありますね、ここから初めてやるみたいな感じで。
Q:村本さんの英語は中学生レベル。だけど、今勉強もしている。
はい。英語でネタもつくっています。
Q:ネタの内容は、日本でやるときとは違う?
違います。誰に聞かせるかによって前提が変わってきますから。前提を理解していると説明が少なくてすむ。そうでないと説明が多くなるんです。
俺、日本では在日朝鮮人をネタにしているんですけれど、在日朝鮮人というと日本人でもぴんと来ない人が多い。たとえば、菅さんや安倍さんのことなら前提を理解しているけど、在日朝鮮人は教科書の中のことでしかなくて、よくわからないという人が多い。そういう前提のなか、自分の出会った在日朝鮮人のかたの話をして、笑いにできたとき、すごく達成感がある。
すると、在日朝鮮人のなかでその話が美化されて、朝鮮学校に行くと「私たちのためにありがとう」と言われることが多いのですが、俺は在日朝鮮人全員の話をしているわけではない。自分が出会った「この人」がおもしろかったから、その人から聞いた話をネタにする。
だって好きな人のことって、好きな食べ物でも映画でも、いろいろ気になるじゃないですか。政治家や大きな組織の人は、立場でものを言うけれども、俺は個人でしかないし、個人の話にしか興味がない。
Q:その人を好きになったからこそ、笑いに変えられる。
そうなんです。おもしろい話があって。いろいろな人の話を聞きたいから、よく初対面の人たちと話すんですよ。
この間も6人くらいの人と話をしていたら、「僕、実家が熱海で被災していて」と言う人がいた。隣の人は「僕も福島の浪江町出身で」と震災10年後の現状を、その次の人は「末期がんで、抗がん剤を飲んでいて」という話をしてくれた。そしたらその次の人は、「私の友達のバイト先の店長の妹さんが、がん……、みたいな……?」と、無理やり話題をひねりだそうとした(笑)。
いやいや、いいんですよ。カードゲームのように必死に探して出したら、「あ、このカード弱かった」ということをしなくても。
Q:ネタ探しになってしまった。
自分個人というものをもっと大事にもってほしいと俺は思います。その人にだって、なにか物語が絶対にあるはずなんです。がんとか被災とか大きなキャッチフレーズに振り回される必要はない。その人にはその人の大きななにかがある。俺はそういうことをもっと聞きたい。
この国では、被爆とかLGBTQとかのことは大きな声で語る人が多い。でも、それ以外の人が「そんなカードを自分はもっていない」「自分には語ることはなにもない」と思う必要はなくて、「あなたにだって泣いている夜はあるでしょう」という話ですよね。それを共有しようぜと思う。
Q:なるほど。だからこそみんなが表現者となる。
社会を変えようとするのは素晴らしいけど、なかなか社会は変わらない。でも、俺たち一人ひとりがこの社会とつながっていることはたしかなこと。だったら同時進行で、この生きづらさのある世の中を自分たちでどうやって楽しんで生きるか。俺はそれを社会のありかたとして提示していきたい。そんなことを思いますね。
取材日/2021年9月5日