最初は面倒くさいと思っていたけど、「君も一緒に踊ろうよ」と言われて心が動いた
Q:〈音遊びの会〉の音楽に影響をうけ、「彼らとの出会いがないと今の自分はない」と大友さんはおっしゃっています。が、最初誘われたときは「障害者とやるのは面倒くさいな」と思ったとも公言されています。
思いましたねえ。そもそも障害者だけじゃなくて、ミュージシャンだって面倒くさい人多いし、まあ私も面倒なタイプですから人のことは言えないですけどね。はじめは神戸大学の大学院生で、障害のある子の音楽療法をやっている人から声がかかったんです。障害者がやる音楽と即興演奏家の音楽は似ているんじゃないか、一緒にやったらおもしろいんじゃないかというアイデアだったと思います。
神戸でのライブ終わったあと、女性4人くらいが企画書もってやってきて、「今、こういう企画考えているんですが、一緒にやりませんか? 有馬温泉も近くですから、そのあと一緒に温泉も行きましょうよ」っていわれて、企画書をたいして読みもせず「やる」って言っちゃったんです(苦笑)。4人のうち1人は企画に直接関係のない人で、オレを引っ掛けるために連れてきたと聞いたときには後の祭りで。もちろん、その後、一度も有馬温泉には連れて行ってもらってないですし(笑)。
本当は一回行って断ろうと思いました。というのも企画書をよく読むと、結構大変だなと思ったんです。障害者がどうこうではなく、神戸に度々通わないといけないから。しかも子どもたちが集まるのは日曜日。月に2〜3回も行っていたら、仕事ができなくなっちゃうし。
Q:それまで障害のある人と一緒に音楽をやったことは?
ないですね。しかも、当時は自分の中に障害者に対する偏見もあったんだと思います。接したこともないからどうしていいかわからないし。なのに、断ろうと思って行ったワークショップで、大喧嘩しちゃったんです。そのときに指導していた人と。
そのワークショップでは、指導者と子どもたちがみんなで楽しく遊んでいてね。楽器もやるけど、鬼ごっこをしたり、絵を描いたりもしている。僕だけじゃなくて、お母さんたちもいてね。楽しそうだけど、いつ音楽やるのかなぁと思っていたんです。そしたらいつの間にか終わっていて、その指導者のかたが「今、みなさんいろいろな音が聞こえていましたよね」って言われて、「はい、聞こえていました。楽しそうでしたね」と言ったら、「これも音楽です」と言われてものすごくカチンときたんです。
だって、オレらが音楽を聞くためじゃなくて、この子たちと音楽をやるためにやっているんでしょって。今、考えると、その指導者はその子たちとちゃんと音楽をやっていたと思うんだけど、多分オレがいたこともあってジョン・ケージみたいな感じで「音楽に聞こえるでしょ」と言いたかっただけかもしれません。でもその言い方になんだかカチンときてしまって、「だったら、子どもたちじゃなくて蛍光灯の音でいいじゃん」って言い返したんです。それに対して相手も「あなたは障害者と蛍光灯を一緒にするのか」と。もう売り言葉に買い言葉です。「一緒にしているのはおまえだろう」って感じで喧嘩になっちゃった。悔しくてね。だったらオレがやるって。
Q:その喧嘩が、結果的に大友さんを本気にさせた……。それも計算だったりして。
ですね。乗せられました(笑)。
でも、この時点では、悔しいだけで乗り気だったわけじゃないんです。
Q:そのときは、おもしろい音楽ができるとは思っていなかった?
思ってなかったなあ。正確に言うと、最初は怒っちゃったこともあっておもしろさを発見できていなかったのかもしれないです。でも、2回目のときに、このときは千野秀一さんというミュージシャンが指導者で、自由にやっているんだけど、音楽の何か断片みたいなものがいっぱい聴こえてきて、いろいろなことが起こっている。そのどれもこれもがおもしろかったんです。そして、気づいたんですよねえ、おもしろいと思い始めちゃってる自分に。これは、まずいなって(笑)。
Q:決定打はなんだったのでしょう。
そのときのワークショップで、当時高校生だった永井崇文くんという、明るくて社交的で、ダンスがうまいみんなを引っ張っている男の子に、「君も一緒にやりなよ」って帰り際に声をかけられたんです。「次は一緒に踊ろうよ」って。
人生で初めて言われたんじゃないかな、「踊ろうよ」って。しかも高校生にタメ口で。なんかこういうのに弱いんですよねえ。だから、決定打は永井くんです。
最初の1ヶ月は挫折の連続。海外で初めて出会った人たちと音楽をやるときと似ていると思った
Q:そこからすぐにやりかたは見い出せたのでしょうか?
2006年1月から、ワークショップに本格的にかかわりだすのですが、最初は本当に難しかったですよ。怒った手前、自分の方がやれるって顔していましたが、全然、もう大反省です。
よく一般の人とやるときはサインを決めて簡単な指揮で即興演奏をしたりするんです。でも、〈音遊びの会〉では指揮をしても全く音が返ってこない。指揮が全く機能しないんです。いろいろ言っても、伝わっているかどうかもわからなかったし「自由にしていいよ」と言うと、みんないなくなっちゃうし(笑)。本当に困った。最初の一ヶ月はこんな感じで挫折の連続でした。
Q:たしかに「自由にやっていい」といって、ステージからいなくなるというのは想定外ですね。
だから、「自由ってなんだろう」って自分にすごく問い直しました。だって本当に自由ならステージから降りようが構わないわけです。なんでオレは、「それはないな」って思ったのか。自問自答の日々でした。「自由にやる」ということがここではテーマにはならないというか。なにしろ、この子たちはそもそも最初からとっても自由にやっているんです。それが社会とうまく一致しないから「障害」と呼ばれてしまうわけで。
普通「自由にやっていいよ」と言っても、そこにはいろんな前提や暗黙のコンセンサスがあったりするってことなんです。それを無意識のうちに受け入れることができる人、まあこの場合は健常者ってことになるのかな、そんな人たちだけで「自由」って言葉を使っているようなところがあって、まずはそんな自分の無意識の発想を変えていかなくてはと思いました。
でもよくよく考えると、この経験、海外で初めて出会った人たちと音楽をやるときと、すごく似ていたりもするんです。要は、日本語が理解できるという大前提の文化があって、日本のマナーのなかでやるのが当たり前の場合と、日本語が通じず、英語もあまり通じないような場所で、一緒に何か音楽をやるときには、コミュニケーション方法も含め一から色々考えざるを得なくて、そう考えると、ここでぶつかった問題も、海外でいつもやっていることと似ているなって。
全員が同じ土俵に乗っかれないなら、階段の代わりになるものを考える、土俵を複数にする、土俵の上と下どちらでも選択可能にするなど発想を変えていった
Q:海外の人たちと音楽をやるときのように、違う文化をもつ相手と、違う文脈のなかでやるようになっていった。
自分と同じ文化を共有しているって安易に思わないようにすることで、すごくラクになりました。一人ひとりが全然違うんです。まるで多民族国家のような集団。
障害の度合いも全然違う。ほとんど健常者と変わらない子から、誰かが一緒じゃないと外を歩けない子、言葉が通じる子、通じない子、その幅が大きくて一様にはできない。そういうことがわかってくると、違いを発見することがいちいちおもしろくなってきました。
たとえば、マイクを使ってしゃべるとき2~3割の子は両脇にあるスピーカーの方を見るんです。通常僕らはスピーカーではなく、しゃべっている人の方を見ますよね。でも実際の音は両脇のスピーカーから出ているんです。でも脳みそが勝手にというか無意識のうちに調整してしゃべっている人から声が出ているように錯覚するようにできているんです。たとえば、コンサートに行ったら、歌っている歌手を見るでしょ。スピーカーを見るのは、音響のエンジニアくらいなもんで、歌手から歌声が出ているって脳内で調整している。人間ってそういうふうにできている。
でも、それができない子もいる。もちろん、それはより正確な聴取能力を持っているとも言えるわけです。ただそれだと日常生活に困ることもあるわけで、だから障害という言葉が使われるんだと思いますが、でもそれは僕らにはない能力でもあるわけです。それって文化とか民族の違いなんてレベルじゃない違いで、その辺りがおもしろいのと同時に、無神経であってはならないなって。
Q:そのような違いの振れ幅が大きい人たちと音楽をやるうえで、どのようにおもしろがったのでしょう?
そもそも、普通はそんな振れ幅のあるもの同士で音楽をやることなんてないので、全てが新鮮でした。プロの現場であれば、自分がコントロールできたりする中で、コントロールを超えたものを見つけたりするんですけど、もう、そんなレベルじゃないというか、コントロールなんかそもそもできないですし、コントロールする必要もないと言うか。
それでも一緒に演奏をして接しているうちに、反応が即時じゃないのも含めて、それぞれの子独自のルールが見えてきたりするんです。無作為でめちゃくちゃに動いているように見えてそうじゃない。こちらが理解していないだけなんです。
普通だったら、なにも考えずにすーっといくはずのことがいかないのはそういうことで、これを今の社会は障害って呼ぶわけですよね。そんなときは、実際にこちらの考え方を変えていかないとどうにもならないわけです。
たとえばですが、土俵に上がりたくても足が悪くて階段を上れない人もいれば、なんの問題もなく上がれる人もいる。そういう類のハードルが音楽の中でもさまざまなバリエーションで存在している感じです。そんな中で、全員が同じように乗っかることのできる土俵を設定するのは無理があって、何人かは確実に階段を上れないのだとしたら、上れるように階段の代わりになるものをこちらで工夫することだと思うんです。あるいは、そもそも土俵のあり方、考え方を変えるとか、土俵を複数にするとか、土俵の上と下どちらでも選択可能にするとか、そういうふうにこちらの発想を変えていくことだと思うんです。
最初の数ヶ月はこんな感じで、〈音遊びの会〉のみんなでああでもない、こうでもないと試行錯誤しまくりました。これが最高におもしろくて、だからやめられなくなったんだと思います。
「相手はどういう文化なのだろう」と考えながら違いをとらえ、最大公約数を探していった
Q:そうした試行錯誤のなかで最大の発見はなんですか?
音楽の共通言語がない中で、音楽をするにはどうすればいいか。そんなことを考えていく中で見つけたのは、そもそも音楽が成り立つ音楽以前の大前提のようなものを探りながら共有することで、一緒に音楽をやることが可能になるってことでした。
どういうことかというと、メンバーが音楽をやりたくなるような環境を、こちらの側でつくることなんです。最初は、ステージをつくることから始めました。普段ワークショップのときって、ご両親や見学の人たちが後ろのほうでざわざわと雑談していたりするんです。まずはそれをやめてもらって、コンサートのときのように椅子を並べて客席をつくり、ステージもつくって、演奏が始まったら、着席して集中して聴いてもらう。そして演奏が終わったらちゃんと拍手をしてもらうようにしたんです。照明があれば照明も当てる。できればステージを高くする。
そうすると、演奏する方も誰に向かってやっているのかわかるようになるので、見違えるように演奏が変わっていったんです。もちろん全員ではないですよ。でもステージを明確に理解する子も出てきて、ステージに上がる際にこちらがなにも言わなくても挨拶するようになったり司会するようになったり。なにより、今まで演奏がダラダラした状態になってなかなか終わらなかったのが、終わるようになったんです。
Q:なるほど、ステージという儀式の場を整えていくことで、演奏者の意識が変わったというのはおもしろいですね。
それまでは始まっても、終わるのが難しかった。気まぐれに終わるか、次の人がいるから終わろうねと言って止めていたんです。「どうやったら演奏が終わるか問題」というのは、いつもみんなで考えていたのだけど、この方法で拍手をもらえるってことが理解されると、全員ではないんだけど、多くの子が終わるようになったんです。
やっぱり拍手って気持ちがいいのだろうね。赤ちゃんがいちばん最初に出す音のひとつは、拍手のようなものだったりするでしょ。これって「私はあなたと一緒になにかしているよ」という意思表示だと僕は思っているんです。ハッピーなときしかやらないでしょ。それが発展したのが拍手なんじゃないかって。その意味で、拍手もダンスや音楽の一種だとすら思っているんです。それに誰でも拍手をもらうのはうれしいもんでしょ。
そう考えると舞台と拍手は、共通言語になり得るんです。今回レコーディグした「OTO」の二枚目の冒頭に「みんな元気?」「元気ないなー」ってやりとりが入っているのは、テレビかなにかで見たアイドルグループの真似なのかもしれないけど、こんな感じで、自発的にステージでハレの空間をメンバーたちがつくるようになったんです。
みんなテレビは見ているだろうし、そこで大好きなアイドルのコンサートの映像を見たりもしていると思うんです。だからみんなの中にはこうした断片がいろいろな形で記憶されていて、そこからさまざまな共通認識を引き出していると思うんです。僕らだってそうでしょ。いろいろな文化の断片を組み合わせながら、前の世代から学習したものを組み合わせて生きている。そういう意味ではまったく一緒だけれど、ただ、その組み合わせ方がやっぱりかなり違う。でも、もとになっているのは比較的共通の日本の文化だったりするんで、そういうものをいちいち発見しながらやっている感じでした。
演奏している瞬間がすべて。一瞬一瞬の音が輝いているここは「宝の山」だと思った
Q:最初もっていた障害者に対する「偏見」もなくなっていきましたか?
はい、だんだんとほぐれていくというか、なくなっていきましたね。かつて外国人と初めて接したときもそうだったかもしれません。要は慣れればいいんだと思っています。90年代の話ですが、イタリアのすごい山の中の町に行ったときに、みんなじろじろこっちを見るんです。その町には東洋人はいないし、私は完全に他所者ですから。でもそれって差別というより、慣れていないからだなって思うんです。
僕だって初めて外国人と接したときはやっぱり動揺していました。言葉も通じないしどうしようって。でも、慣れてくるとどうってことない。自分の経験だと、差別は慣れれば解消する……、なんです。まあ現実はそんな甘くないこともよく知っているつもりですが、でも慣れは重要な処方箋だと思います。
〈音遊びの会〉のみんなともそうで、だんだんと回を重ねていくうちに慣れていった。というか仲良くなっていった。僕だけじゃなくお互いにね。彼、彼女たちも人見知りするから、最初のころは演奏ものびのびしてなかったと思うんです。でも仲良くなってくるとどんどん変わっていきました。永井くんのように劇的に早い子もいれば、トロンボーンの藤本優くんみたいに何ヶ月かかけて慣れていく人もいる。彼は最初のうちはみんなの前で演奏しなくて、誰もいなくなるとピアノを弾いていました。それが少しずつ変わっていって、そのうちみんなと一緒の場でトランペットやトロンボーンを吹くようになったんです。
まだ出会ったばかりで互いに慣れてなかった頃は、イライラする子とか、ストレスを感じる子もいて、そうすると、イライラしている音を出したり、楽器を壊すこともありました。でもみんな顔見知りになって、なんとなく仲良くなっていくと、そういうこともなくなって、はっきりと音が変わっていったんです。
Q:関係性が変わると音も変わってくる。
それが重要で。言葉でコミュケーションできない分、音でわかるというところもあって。機嫌の悪さを主張しているわけではないけど、なんでだかすぐわかる。そういうことを感じるのも新鮮でおもしろかった。
音楽はコミュニケーションのためにしているわけではないけれど、ただ〈音遊びの会〉のメンバーとは、音楽の場を一緒に共有しているほうが、言葉よりも全然コミュニケーションできているような気がするんです。
Q:一瞬一瞬の音を大切にしていて、音がきらきらしていると著書『学校では教えてくれない音楽』で言っていますね。
僕ら即興演奏の専門家ってのはどうしても作為的に即興演奏してしまうんです。そのことを〈音遊びの会〉とやっていると思い知ります。彼ら彼女らの演奏はとってもナチュラルに聴こえるんですよね。作為的に聴こえない。普通の小学生とやってもなかなかそういう音は出てこないんです。音楽を学習していますから。ドレミファソラシドを習っているということは、絵でいうと遠近法を習っているようなもので。たとえば一流の絵かきの方が子どもの絵を見て「最高」というのは、学習する前の子どもの絵ですよね。紙からはみ出しちゃったりして、遠近法のような習った技法が出てこない。
音楽でそういう状態ってなかなか存在しないだろうと思っていたら、〈音遊びの会〉がそうだったんですよねぇ。そこには、いい演奏しようなんて野心はゼロ。音を出しているだけで楽しいという状態が延々と続くんです。本当に宝の山だと思いました。
「自分がここにいてもいい」「あなたもここで音を出していい」という理想郷のような状態が、僕たちの「普通」になった
Q:誰かが出した音に対して反応して盛り上がったり、静かになったりというコミュニケーションもあるのですか?
もちろんあるけど、よくある即興演奏のように、コンという音をだしたら、コンというように直接的に反応する子はあまりいません。ただ、お互いにとてもよく聴いていて、深いところでは反応しているのはだんだんわかってくる。ただ、その反応は単にオウム返しみたいな単純な音の反応ではないのでわかりにくい場合もあります。「そこにいてもいい」というだけの反応の仕方まであって、それって実はものすごく高度なコミュニケーションだと思うんです。「自分がここにいてもいい」「あなたもここで音を出していい」といような反応をしだしたあたりから、みんなリラックスした音を出していったんじゃないかな。
それはオレも同じで、一緒にやりだして何ヶ月かして、「いるだけでいいんだ」って思えるようになったんです。「自分がいるだけでいい。相手がいるだけでいいな」っていう気分です。そのあたりから、毎回行くのが楽しみなって、ここは楽園だなって、まるで竜宮城だって思うようになりました。有馬温泉には行けなかったけど、それ以上の場所に連れて行ってもらった感じです。
そんなわけでワークショップの回を重ねるごとに、ただ音を出しているだけで楽しいという理想郷のようなものになっていって、それがいつの間にか僕らの「普通」になっていった感じです。
Q:それが〈音遊びの会〉にとっての「普通」の状態、「普通」の音楽っていいですね。
〈音遊びの会〉にかかわり始めたころ、障害のある人たちの音楽ってどういうものがあるのか気になって見学に行ったりしました。多くの場合、普通の楽曲、当時のヒットしていた曲を健常者のように演奏しようとしたりしていて。もちろん、それはそれで楽しそうでした。ただ、それを見たとき、障害がある人たちでも、健常者がやっているような普通の曲もできますよ、という感じがして心の中ですごい抵抗してしまいました。
〈音遊びの会〉でも、当初はお母さんやお父さんたちに「どうして普通の曲をやらないんですか?」と問い詰められたことがあって、僕はそれに対してちゃんとした答えを出せなかったんです。だって、お母さんたちの思う「普通」の曲をやってなにが悪いのって、オレも思いますし。ただ「普通」に近づけることじゃなくていいんじゃないかって。
Q:それに対してお母さんたちの反応は?
ただでさえ普通じゃないって思われているのに、こんな普通じゃない音楽やったら、ますます普通じゃないって思われちゃいますと言われました。ということは、オレが普段からやっている音楽も普通じゃないって思われているってことで。それって分からなくはないけど、でも「普通」ってなんなのかって。自分は別に特殊なことをやっているわけじゃないと思っていますから「普通じゃない」って言われることに軽く抵抗を感じるんです。
でも、そんな保護者たちも、のちのち変わっていくんですけどね。
「普通」は学習して身につけていく。
でも「普通」である必要のない場所もある
Q:こうして見ていくと、「普通」という言葉のとらえかたも人によってかなり違いますね。
「普通」というのは社会性みたいなものだと思うんです。もちろん人によってなにが普通かはかなり違うけど、それでも社会的なコンセンサスみたいなものがあるとして、そこでうまくやっていくことを「普通」って言うような気がするんです。
小学校の一年生くらいの小さい子を見ていると、みんな全然「普通」じゃなくて、ものすごく個性的ですよね。でもだんだん「普通」を学んで身につけていく。なにしろ社会性を身につけていかないとやっていけないわけで、親や先生が「普通」を教えていく。「電車の中で騒いじゃダメでしょ」って感じで。そうやってみんな「普通」の子になっていく。それはもちろん必要なことだと思うんです。だけど〈音遊びの会〉は無理して普通を会得しなくてもいい場所に思えたんです。だから「普通」の曲をやらなくてもいいんじゃないかなって。
Q:学習することで、自分で「普通」を求めてしまうこともある。
通常ある年齢以上の子どもは、「普通じゃないことをやること」をおとな以上に嫌がります。子どもは押し付けられて「普通」をやるのではなくて、自分が望んで「普通」でいようとします。そのほうがおとなに褒められるし、学校でも上手くやっていけますから。でも一方で発達障害でなくても、「普通」ができない子も一定数います。そのままおとなになると変わり者とかって呼ばれたりするわけですが、そういう人にとってアートとか音楽の世界は居心地がいい場合もあるんじゃないかな。なにか人と違うことをやると褒められたりするわけで。アートや音楽の世界だと「普通」って褒め言葉じゃないですからね。つまらないって意味でしかない。
でも、アートとか音楽の世界でいう「普通と違う」なんて、〈音遊びの会〉で起こることと比べたら小さな差異でしかないように思えちゃうんです。普段僕らはちょっとした差異で「これは普通じゃない、すごい」とか言っているわけだけど、〈音遊びの会〉でやりだしたら、そんな小さな差異なんて軽く飛び越えちゃうくらいぶっ飛んでいておもしろい。「わー、そうくる?」ということだらけ。予想ができないことの連続だった。
Q:〈音遊びの会〉と一緒に演奏し始めた当初、大友さんは自分のだす音が嫌でしかたなかったとおっしゃっていますね。
自分がいつもやっている楽器でやると、これまでやって来たような技量で対応しちゃって、自分の音がすごく作為的に思えてくるんです。これには本当に落ち込みましたねえ。
自分の出す音が作為的に聴こえるって、プロとやっているときはあまりない感情なんです。でも、ごくごくたまに最高峰のインプロバイザー(即興演奏家)とやると、「どうして自分はこんなに作為的なことしかできないんだ」という気持ちになることがあるんです。これが〈音遊びの会〉とやるときは毎回起こるんですよ。これには本当に参りました。でもね、だんだんとそれも慣れてくるんです。そうするとそれが「普通」になる。要は、いい演奏をしようとかって欲みたいなものがなくなった方が、彼ら彼女らとやるときはいい結果が出るような気がします
パンク、プログレ、ダブなどを感じさせる「OTO」はめくるめく世界
Q:今回、大友さんがプロデュースしたアルバム「OTO」では、遠慮なくギターを弾いています。
彼ら彼女らに合わせて作為的じゃない演奏をしようって思うこと自体が作為的になってしまうってことにだんだん気づくようになって。最近は「どうせ作為はあるんだから仕方ない」って諦めました。それよりはいつものように思いっきり演奏してやれって思っています。
Q:どうして初のスタジオレコーディングでアルバムをつくろうと思ったのでしょう。
とにかくいい音で録りたいと思ったんです。これまでライブ録音はあったけど、どうしてもステージや客席ががやがやしていることもあって、これだと微細なものが的確に伝わららないなって思っていたんです。普段、僕らがやっている音楽と同じように、ちゃんとパッケージにしていい録音で届けたら、どういうふうに聴いてもらえるのだろうってずっと思っていたんです。
最初はスタジオでやろうと思ったんです。でも慣れない場所だと、とりわけ自閉症の人たちにはきつい。だからコンサートなどで行き慣れている神戸のグッゲンハイム邸の部屋に布団を張って防音をして、一級のスタジオ機材を持ち込んで簡易スタジオのようにして、本職の録音エンジニアにお願いして録音しました。全部で48曲の2枚組アルバムなのだけど、実際にはこの10倍くらいは録っています。
Q:一枚はソロとデュオ、もう一枚はアンサンブルとバンドという構成。ニューヨークパンク、ドイツのアバンギャルドなプログレ音楽、ダブ、音階を超えたコーラス・グループなど、めくるめく世界でした。
ありがとうございます。どう聴いてもらえるか、聴いた人が自由に感じてくれればいいと思っています。
もう16年もやっていますから、本当にいろんな形のグループができたり、どういうジャンルに例えていいのかもわからないようないろんな音楽が生まれては消えていきました。今回のアルバムに入っているのは、たまたまこの時期に生まれた音楽たちです。
ちょっと残念だったのは録音期間中にコロナ禍が始まってしまい、大編成のものが録音できなかったことなんです。いつもステージの最後の方になると、永井くんとか三好佑佳ちゃんあたりが出てきて、自分たちで指揮をして、ビッグバンドをやるんですよ。定番なんです。音が出ればすぐに〈音遊びの会〉ってわかるバンドサウンドです。
誰にもわかってもらえないかもですが、オレはローリング・ストーンズかよ! ってくらいかっこいいって思っているんです。これが今回録音できなくて、それだけが今回のアルバムの心残りかな。
Q:結局、お母さんたちはどのように変化したのでしょう?
変わりましたよ、ものすごく。最初「普通の音楽を」って言っていた保護者のみなさんもコンサートのときにステージに上がることになったんです。保護者バンドみたいな感じで。なにをやるかは自分たちで考えてもらって。そうしたら掃除機でアンサンブルをすることになったんです。いや~驚きました。保護者のほうがすごいじゃないかと。実際に掃除機を何台か持ち込んで、ガーッとやったんです。その後は「普通の曲をやりましょう」とは言わなくなりました。
保護者のみなさんも、子どもたちがやっている即興演奏はなんなのだろうって考えたんだと思うんです。もっと言っちゃえばそもそも音楽ってなんなのだろうって。保護者だけでなく、みんなでそのことを考え続けたんだと思うんです。結果、ものすごく変化したと思います。一言でいえばみんなとってもオープンになった、開かれた考え方をするようになったと思います。
Q:大友さんも〈音遊びの会〉とやるようになって、音楽ってなんなのだろうと考えたそうですね。
考えました。考えて考えて、考えまくりました。そして今も考え続けています。どうやると音楽として成立するのかとか。そもそも成立するってどういうことかとか。
それは音だけの問題ではなくてステージをつくるとか、照明を当てるとか、終わると拍手をするとかって設定を含む問題でもあるなとか。
それだけではなく、社会をどう構成するかとか、どうつくっていくかということと、音楽が成立することがシンクロしているような気がしていて、だったら「こういう社会をつくりたい」と思うことが、そのまま音楽に反映するんじゃないかとか。〈音遊びの会〉はまさにそんなことをやれる場なんです。
Q:大友さんは音楽に向き不向きはないとおっしゃっていますね。
演奏するうえでこうあらねばって目標があって、そこに到達できる人が「向いている」のだとしたら、それがなくなったら、向いているも向いてないもないってことだと思うんです。
たとえば今ここで「じゃんけん」をするとします。そのときに、「じゃんけん」に向いてないとは考えないでしょ。こうあらねばなんて目標値がないからです。でも「じゃんけん」だってリズムや節があってアンサンブルですよねって考えると立派に音楽だと思うんです。だから音楽には本来向き不向きはないと思っています。その出来を批評するから向いているとか向いてないが出てくるだけです。
Q:誰でも自由に音楽はできるということでしょうか?
今は音楽で「自由に」って言葉を使わないようにしています。「自由に」と言ってしまうと思考停止に陥りやすいし、自由にできる人だけのものになってしまうなと思うんです。自由にやるためにはそこそこの経験や技術も必要だったりしますから。
無論、社会的な意味合いでは「自由」という考え方は重要ですし大切なものです。
でも、〈音遊びの会〉のような音楽のあり方を求めるのなら、まずは、その場をどうやってフェアにシェアしていくかということかなって思っています。フェアな関係性をどうやってつくっていくか。その際に根っこにある考え方は、自由ってこと以上に、「フェアであるには」ということだと思っています。そのことをずっと考え続けています。