何もせず座っているアーティスト
奈良〈たんぽぽの家 アートセンターHANA〉の第1アトリエ。朝10時から他のアーティストが一斉に制作をスタートさせる中、ひとりぼんやりと椅子に座っている女性がいる。
澤井玲衣子さんは〈たんぽぽの家 アートセンターHANA〉を引っ張るアーティストのひとりだ。
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1996年より〈たんぽぽの家〉に通い活動を始めた澤井玲衣子さん
1996年からこのアトリエに通い、これまでに個展やさまざまなグループショーに参加。数多くの委託作品も手がけている。先日、開業した奈良のデザインホテルのスイートルームにも彼女の作品が飾られたという。
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制作中、まったく手を動かさない澤井さん。話しかけると会話が弾む
ずっと座っているだけの澤井さんに「こんにちは」と話しかけてみると、「あんまり寝てないねん」と、ちょっとお疲れの様子。かと思いきや、アトリエプログラム担当の吉永朋希さんいわく、それは口癖のようなもので、意外にも「今日、彼女はけっこうヤル気。張り切ってますよ」とのこと。
「どこから来たん?」「どこに泊まる?」「車で来た?」「駐車場に停めた?」など、静かに、だけど矢継ぎ早に繰り返し質問する澤井さん。そんな会話をしながら、絵筆を取るきっかけを探っているようにも見える。
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2021年秋、奈良にオープンした「MIROKU 奈良 by THE SHARE HOTELS」の客室に飾られる澤井さんの作品。「piano note」/墨、越前和紙、パネル/803mm×803mm/2021年/Photo:MARC AND PORTER/提供:株式会社リビタ
彼女の絵画、作風の方向は大きくふたつある。ひとつは水彩絵具やパステルで描かれる抽象画。もうひとつは墨やコンテで描かれる抽象画。前者は思い出の風景を描き、後者は楽譜や楽器などのモチーフを彼女の解釈で描く。
例えば、パリ旅行の思い出が描かれた「La Tour Eiffel(エッフェル塔)」などのシリーズは、彼女の代表的な作風だ。パステル調の色づかいは浮遊感のある瑞々しさで、儚く、繊細なタッチが特徴といえる。
一方、2003年頃から始まった、コンテや墨でピアノやピアニストを描くシリーズは黒の緊張感とともに抒情的なムードが漂う。シューマン「楽しき農夫」など、楽譜のモチーフが多く採用されているが、聞けば小さい頃からピアノを習い、現在も週1で教室に通っているという。このアートセンターのクリスマスコンサートなどでピアノを披露することもあるそうだ。
A4サイズで完成するまでに半年
「作品制作は本当にちょっとずつ進んでいきます。たまに大胆に墨を垂らしたりすることもありますが、ひとつの作品にかける制作の時間が非常に長いタイプ」と吉永さん。
現在、自らが取り組むのはA4サイズほどの小さな作品が主だが、完成するまでに半年ほどかけることもある。キャンパスのサイズや作風もどんどんミニマムに。いわば洗練化されてきているのだそうだ。
描くモチーフは必ず自分で決める。描きたいものがあれば写真を撮ってきてほしい、とスタッフにオーダーするそうだ。
「もともと澤井さんの制作ペースはゆっくりなんですが、ここ数年で福祉ホーム(介助付きマンション)での自立生活が安定してきたからか、さらにゆるやかになってきてますね」。しかし、頼まれた絵の仕事に関しては、なぜだか「ものすごく早い(笑)」とのこと。
思い出から心象風景を描く
「水彩の作品には、描きたいモチーフや彼女が付けるタイトルが明確にあります。だけど、エッフェル塔の写真をしっかり見ながら描いていても、まったく写実ではなく、他のモチーフとテイストが似ていることもよくある。これはスタッフの見解なんですが、彼女の場合、その時の思い出とか記憶を描いているのかな、と思います」
澤井さんは、記憶から浮かび上がる心象風景を描いているのかもしれない。ただ座っているだけのように見えて、その時の記憶を少しずつ手繰り寄せているのかもしれない。午前中には一度、筆を握っているところを確認できた。
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机の前を見つめる澤井さん
お昼の休憩をはさみ、午後になっても引き続き、絵筆をとることなく机に座る澤井さん。そうやって、好きな音楽や音楽会、旅行やイベントなどの思い出、そうした記憶を引き出す時間に向き合うことが、彼女にとっての大事な創作時間だといえるのかもしれない。
これからも思い出を作るたびに、作品が生まれていくのだろう。あらためて、これまでの作品を見ると、言葉にならない彼女の人生の一部を眺めているような気持ちになった。
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このとき描いていたのは、昨年のハロウィーンパーティーで着ていた服の模様とのこと
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机の壁には思い出の写真と楽譜、作品などが貼られている