ごちゃ混ぜのエネルギー、その真ん中で始まる日本史の授業
その日、〈希望の園〉の作業訓練室を訪れると、20名ほどのメンバーが思い思いに過ごしていて、部屋はにぎやかでエネルギーに満ち溢れていた。
あるテーブルでは八田重一さん、通称hatchさんが詩を書いていた。
「いつも はなせるし、いつも れんらく とれるのでいい」
「よけいな はなしは めんどうなことに なるので やめとこ」
これはLINEについての詩だという。hatchさんの詩は、自身も参加する希望の園メンバーによるバンド「ダッキーアクソン」が演奏する曲の歌詞になるのだ。
別のテーブルでは、石川喜美子さんがチャームやマスクチェーンといった細やかなアクセサリーに絵付けをしていた。陶芸のパーツをスタッフが手に持ち、石川さんが口にくわえた筆で着色していく。
開設した当初の1981年から園を利用していた石川さんは結婚し、子育てが始まると園を離れた。2人の子どもを育て上げると、園に復帰することになった。そのとき施設長の村林真哉さんに絵を描くことを勧められた。
絵は得意ではないと答えた石川さんに、村林さんは「上手に描かなくていい、たのしく描いてみたら?」と伝えた。その言葉をきっかけに、石川さんは今、とてもイキイキと花の絵を描き、造形にも取り組んでいる。
しばらくすると、テーブルのひとつで日本史の授業が始まり、部屋の空気はそれまで以上に心地よいごちゃ混ぜ状態になった。教員免許を持つスタッフが担当するそれは、授業と言っても全員参加ではなく、興味のある人が集まってテキストを読み、皆でそれについて話し合うスタイル。この日は6人ほどが集まり、江戸時代の庶民の生活について話していた。
日本史をはじめとする生涯学習、カラオケ、映像上映……、さまざまなプログラムが毎日、午前午後に準備されてはいるが、自由参加であくまで個人の意思が尊重されている。スタッフはメンバーそれぞれを見守り、必要に応じて手伝う。ゆったりしていてもいいし、屋外でスタッフに指示しながら共同でオブジェを制作している人もいる。
「大家さん」の存在と音楽活動
hatchさんが詞を提供するバンド、「ダッキーアクソン」はスタッフと利用メンバー混合で結成。hatchさん、ボーカルの伊藤駿さん、村林さんが作ったメロディに、外部メンバーのカナダ人アーティストがバックトラック等を制作、バンドみんなでアレンジして曲にしていく。ボーカル、サンプリング、ギター2名、ベース、鍋などを叩くジャンクドラム、ドラムの7人編成。作詞担当のhatchさんは、ライブではサンプリング担当だ。骨太なリズムとギターのロックサウンドに、ハイトーンボイスの伊藤駿さんのボーカルが載る。ライブ活動も旺盛でCDも制作している。
「ダッキーアクソン」の練習やカラオケといった音楽活動は、楽器やスピーカーなどの機材がそろった新館で行われる。またアトリエの横にはレコード部屋があり、棚には何千枚ものレコードがぎっしりと詰まっている。この部屋は、園がある土地と建物の大家さん、野田鐄蔵さんのかつての自宅の一室。ジャズを中心とする野田さんのレコードコレクションに、ロック好きの村林さんや他のメンバーのコレクションが加わった。
絵画のアトリエでは、いつでも誰かがかけたレコードを聴きながら、創作活動が行われている。〈希望の園〉の日々と音楽とは切り離せない関係だ。野田さん、村林さんを含む特にレコード好きのメンバーで「レコード同好会」を結成しており、みんなでレコードを買いに行くこともある。
野田さんは現在「大家さん」でありながら、非常勤職員として〈希望の園〉を手伝っている。みんなが絵を描く様子を見守り、レコードをかける姿は一職員というより、若き芸術家たちのパトロンという雰囲気だ。
午後、絵画のアトリエに移動すると、何人かのメンバーが大きなキャンバスに向かっていた。キャンバスの前にゴロンと寝そべり、リラックスしている人もいる。午前中は詩作をしていたhatchさんも絵画制作に勤しんでいた。ジャッキー・チェンの絵は、目の部分を描き込むのに力が入ったのだろうか。キャンバスに穴が開き、光が漏れていた。
〈希望の園〉という作品を関わる人全員でつくっている
音楽や絵画や造形といった芸術活動と並んで希望の園が力を入れているのが、社会活動だ。コロナ渦以前は近隣の小中学校との交流会を年に50回ほどやることもあったという。子どもたちに車いすで街を移動することを体験してもらったり、講演活動を行ったり地域通貨を作ったりと地域における役割を大切にしている。また海外での展示や施設との共同制作など、国際交流もさかんに行っている。
同園のこうしたスタイルは、「社会彫刻」という考え方が大きなヒントになって生まれている。美術を学んでいた施設長の村林さんは、恩師のすすめでドイツ人アーティストのヨーゼフ・ボイスが提唱する社会彫刻と出合う。アトリエにこもって絵を描くのではなく、社会に出て人々を巻き込み、未来を意図的に創造することこそが芸術なのだというその考えに惹かれた村林さんは25歳でドイツへ留学。既にボイスは亡くなっていたが、その影響を色濃く受け継ぎ、絵を描くかたわら、芸術とは何か、人間とは何かを考え続けた。
帰国した村林さんは自分の創作を続けながら、特別支援学校の美術教師となる。それまで関わることがなかった障害があるといわれる生徒たちとの率直なコミュニケーションがうれしかった。まったく絵を描かなかった生徒が、村林さんが教師となったことで描き始めたり賞を取ったりして周りの教師に驚かれることもあった。
「絵を描くことの前に人があって、まず人と人でつながる。この人のこと好きだなあ、と僕が思って、向こうも僕のことが好きになって気持ちが通じ合うと、こちらが無理に勧めなくても『ちょっとやってみる』と自分から描き始めたりするんですよね。〈希望の園〉でやっているのはコンセプチュアルアートや現代アートではないので、その人のいいところ、もっと言うとその人自身が作品に出るのがいいんだと思います」と村林さん。
その人自身がキャンバスに立ち現れた作品は力を持ち、人々の目を捉える。国内外で評価を得ているメンバーも多い。年に一度、東京港区の増上寺で展覧会を開き、それがメンバーのモチベーションや楽しみにもなっている。
村林さんは土曜日には同じ場所で絵画アトリエ〈HUMAN ELEMENTS〉を主宰している。〈希望の園〉を利用できるのは18歳以上の人に限るため、18歳未満で絵を描きたい人などがこちらに集まってくる。土曜日になると〈HUMAN ELEMENTS〉のメンバーに加えて、園のメンバーも絵を描くためにやってくる。
施設を利用する人もアトリエに来る人もスタッフも、それぞれが自身の仕事をしながら、ときに交わり、影響を受けたり与えたりしながら日々が過ぎていく。
「誰かが描く1枚の絵とか、誰かが奏でる曲だけが作品なのではなくて、〈希望の園〉全体が、みんなで一緒につくっている作品なんです」
そう村林さんがいうとおり、社会彫刻の思想をベースに、芸術、社会活動、国際交流、福祉のほか、言葉にならないものも含めたすべてが循環しながらひとつの世界となり、ここで息づいている。
○Information
〈希望の園〉
三重県松阪市小阿坂町2253-2
電話:0598-67-0486
ウェブサイト:http://www.kibounosono.info/