今回の共演者
鎌江一美
KAMAE Kazumi(1966〜)
滋賀県在住。1985年から〈やまなみ工房〉所属。思いを人に伝えるのが苦手な彼女は、コミュニケーションのツールとして振り向いて欲しい人の立体を作り続けている。モデルはすべて思いを寄せる男性。最初に題材を決め、原形を整えると、その表面全てに細かい米粒状の陶土を丹念に埋め込んでいく。完成までに大きな作品では約2か月以上を要することもあり、無数の粒は作品全体を覆い尽くし様々な形に変化を遂げていく。
中南米のあたりの昔の文明がありますよね、アステカとか、インカとか。これらは、そこで考古学者が地層を掘っていたらでてきた土像です。どうやら時代的に、別の大陸からやってきた侵略者たちに襲われて、国が全滅してしまった悲劇を形としてとどめようと、当時の職人がつくったもののようです。そのときに何が起こったかは、文字を持たない人たちだったから記録はない。この像を読み解くしかないんですね。
最初に出土したこれは、この土地にずっと住んでいた土着の人。
次に出たこいつが鎧を着て攻めてきた侵略者という説をたてた。
じゃあ、この小さいのはなにか。
それを考えたとき、考古学者は説を変えたんです。俺の説は間違っていたと。
最初に出土した像は人だけど、小さいやつは伝染病であると。そう、これコロナなんです。
それならば2番目に出土したこいつはなにか。
これはマスク。何千年前にもそういう時代があったんです。じゃあ、そのあとどうやってコロナを克服したか、それこそ知りたい。でも、考古学者が探しても、探してもなにもでてこない。だのに、どうなったかという問い合わせがたくさんきたから、考古学者はもう一度最初の像を持ち出した。
「伝染病が広がり、マスクの時代もあったけれど、また元に戻れた」という説を捏造したんですね。
本当はもっと強力な伝染病も見つけていたんです。
そう、変異株ですね。でもこれは隠した。えらいことになってしまうから。そして葛藤が生まれたんですね。こんなことをして良かったのかと。
人々に希望を与えるために、俺はわざとこの説を出した。学者としては良からぬことをやったけど、人類のために希望を指し示したんだと。
土着の人たちは、侵略者に攻めいられて病気で全滅してしまったけれど、侵略者との混血は生き残った。国としてはなくなっても、人類として生き延びていれば生物学的にはいいじゃないかという考えもあるにはある。でも、命さえつなげば問題はないのか、それでも人間と言えるのかという考えもある。
今回のオリンピックも、開催しないほうがいいという人と、開催すべきだという人の立場が違った。次元の違う話をしているから絶対行き合わない。こうした葛藤と分裂が考古学者の中でも起こっていたんです。
* *
そうこう考えているうちに、また新たな説が見えてきた。
病原体は侵略者が持ち込む前に、もともと国内にあったもので、土着民である最初の像(写真左)が祈りを捧げていると、そこにマスクである2番目に出土した像(写真右)がやってきて、彼らは「祈るよりもマスクだ、それが重要だ」と説いたのではないか。
そして気づいたんです。最初に出土した土着民の像(写真左)とコロナの像(写真中)は血縁関係にあることを。よく見ると、体の模様も似通っているし、耳と手にも同じような特徴が見られる。さらによく見ると変異株(写真右)も同じ特徴がある。つまり、土着民と病原体である伝染病は血縁関係にあることがわかった。同化して、取り込んでくんだね。一緒に生きてく。変異株的人間になっちゃう。
そうして見ていくと、変異株的人間たちとマスクの間にはすごく断絶感が出てきてしまった。防ぐためにマスクはあるのに、今やしっかり異物として扱われていて、かわいそうだと思うようになる。交わることがないんだね。
そういう視点でマスクの像を見ると、なんだか情けない顔に見えてくる。
下唇をつきだして、いじけている。顔がないから感情が読めなかったけれど、どこか寂しげにすら見えてくる。考古学者はこのマスクにどんどん感情移入していったんだ。
すると、悪病退散のために祈りを捧げていたと思っていた土着民の像が突然凶暴な存在に感じられたんだ。
そして、たいへんなことに気づいてしまった。最初は土着民だと思っていたこの像は、侵略者ではないかと。実はマスクこそが土着民で、あとから入ってきた侵略者が君臨した。そう気づくと、マスクの像は毛糸のセーターを着た鉄仮面のようで、頑なに自分の中に閉じ籠もっている。それに対して、残りの3体はにゅるにゅると自由に触手を伸ばしている。そして気づくんです。この地層の文化は、多様性を許容したいわば元祖民主主義を発明した現代人の正当な祖先なのではないかと。
* *
このように視点を変えると、関係性がどんどん変わってきます。視点が変異したことで、自分の考え方も変異してしまった考古学者は、歴史が変わる瞬間を体験してしまったんだね。
疫病から発した過去の大試練を様々な見解として拡散させることで、その悪魔的衝撃を和らげているんだと考古学者は自分に言い聞かせました。しかし考古学を逸脱してそこまでの論を張っても、タリバンやミャンマーの軍事政権は耳を貸さないでしょう。新型コロナ分科会の尾身会長に訴えても「今そういう抽象的なことを言われても」とか返ってきそうです。
とうとう考古学者は、セーターの上に手製の鉄仮面をつけて「大地に還るんだ」と意気込み、山梨で畑を耕すようになったそうです。自らが「変わり者」にになって村人たちとの共生実験を試みてるとか、いないとか。
たまに声をかけてくれる人もいるようですよ。「それ被っていいことあるなら、俺も真似してみよっかな」と。そんな問いに考古学者はこたえます。
「なんにもない。暑くて重いだけだ」と。とりあえず村にはまだ広まってません。
(おしまい)
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました
制作も妄想も、内、外、内、外の永久運動。行き止まりになることもあるけど、その姿も愛おしい
この立体はどこかユーモラスな部分があって、存在感がありますね。きっと手が遊ぶようにしてつくったのだろうね。頭でつくるのではなく、手がつくっていく。だからなのか、生命力を感じます。
作品のつくられかたによって、妄想のありかたも変わってきます。
つくり手はいつだって、つくったものに影響されて次をつくる。その連続ですよね。一度つくることで、自分の外のものになって、外になったものからまた影響をうけて、自分の中のものになり、つくることで外のものになる。内、外、内、外の永久運動のようなもの。
そんなときなにかの思いつきで、立体像の目の部分を全部線状にしちゃったことで、それ以上進まなくなるということも起こるかもしれない。行き止まりになったから、また元のパターンへと戻ることだって起こりうる。
そうしたことはよくあることでね。いいと思ってつくってはみたけど、行き止まりだったってことって、妄想でも、制作でもありがちなこと。
そこからたとえ引き返すことになったとしても、その行き止まりの姿には惹かれるよね。誰かに遮断させられたものじゃなくて、自らが遮断したら下唇まででてきちゃったというような。「俺、出口がないんだ。どん詰まりなんだよ」みたいな感じで、どんどん愛おしくなってくる。明日の自分の姿のように。
最初は「侵略者」のようなよそよそしさだったのに、最終的には感情移入して「アイドル」的存在にまでなったマスク像。妄想をふくらましていくうちに、最初の見え方からどんどん変わっていく。今回はそんな体験をしました。