それは1枚のはがきから始まった
そのはがきは、5年ほど前の新年に届いた。受け取ったのは、〈あとりえすずかけ〉のスタッフ・三栖香織さん。
はがきには「僕と舛次崇くんの展覧会をしてください」と書かれていた。この「僕」こと、富塚純光さんは〈あとりえすずかけ〉に在籍している作家で、舛次さんも作家仲間だ。舛次さんとの展覧会開催への思いには並々ならぬものがあったのだろう。あとからわかったことだが、富塚さんは三栖さんだけでなく、美術館の学芸員など少しでも可能性がありそうな人に同様のはがきを送っていたそうだ。
「富塚さんのなかで舛次さんの存在は特別なんです。ライバルでありながらもアーティストとしてすごい人だと感じているんだと思います」
仲間からそんな思いを抱かせる舛次さんの才能を見出したのは、〈あとりえすずかけ〉〈すずかけ絵画クラブ〉の立ち上げ人である作家のはたよしこさんだった。
アトリエに通い始めたばかりの頃の舛次さんは、黒のパステルで大好きな甲子園球場のスコアボードの絵ばかりを描いていた。ある日、アトリエにあった植木鉢を唐突に描き始めたのだという。それからは野菜、ハンガー、動物など、舛次さんが身近に感じるものがモチーフになった。植木鉢を描いていた初期の頃は、多色使いだったが、次第に青、白、茶、黒色と絞られていった。
「この4色は先生(はたさん)が提案しました。色を限定したほうが舛次さんの描く形のおもしろさが見えるんじゃないかと思ったようです。本人たちの絵の魅力を引き出すためには何をすればいいかを、先生はいつも考えていました。舛次さんもチャレンジ精神が旺盛ですし、先生からの色やモチーフの提案に楽しみながら挑戦しているようでした。先生も舛次さんも互いを尊敬し、信頼しているからできたことだと思います」
三栖さんに舛次さんと富塚さんの展覧会を、「ぜひやりなさい」と背中を押したのははたさんだった。開催において大きな課題だった予算の目処も立ち、三栖さんは会場探しに奔走した。新型コロナの影響で、当初の予定より1年ずれる形にはなったが、最終的に兵庫県立美術館のギャラリー棟という大舞台での開催が決まった。
あとは、このまま準備をしていくだけ……そのはずだった。しかし、開催日をおよそ半年後に控えた2021年1月、アトリエに舛次さんの訃報が知らされた。
「それまでアトリエで元気な姿を見せていたので。……ほんとうに急でした」
本人不在のまま開催の準備は進められ、その年の6月末に舛次さんの『静かなまなざし』と富塚さんの『かたりべの記憶』はW個展というかたちで同時開催された。展覧会に来た富塚さんは、本当にうれしそうに舛次さんの絵を観ていたそうだ。
海外に作品が散逸してしまわないように
舛次さんがこれまでに描いた絵画は約500点。展覧会では時系列順に約100点が展示された。広い空間に作品が並ぶ様子は圧巻だった。
初期に描いた甲子園球場の絵と、中期以降の大胆な構図と豊かな色使いで描かれた絵を見比べると、後者は明らかに「作品」になっている。改めて舛次さんの才能を見い出した、はたさんの直感に驚かされる。彼にしかできないモチーフの切り取られ方がされていて、タイトルを見て何が描かれているのかを理解することもしばしば。だからこそ見ていて飽きないし、見るほどに絵の世界に引き込まれてしまう。
生前から舛次さんの絵を買いたいという声は多くあった。スイスのローザンヌ美術館に収蔵されて以来、多くの注目を集めてきた。しかし、数年前から舛次さんの絵の販売はやめているという。理由は絵の散逸から守るためだ。国内ならともかく、海外に作品が売れると、一堂に集めて展覧会を開催することが困難になる。
「舛次さんの絵は海外からの問い合わせも多いんです。絵が世界中に散らばってしまうと、作品が日本に残らなくなってしまうかもしれない。『売って欲しい』という声もありますが、今は販売は止めています。今回の展覧会も、保管していたおかげで開催できました」と三栖さんは話す。
シュウちゃんはものづくりの師匠
「絵のバランスに惹かれました。シュウちゃんの絵は、部屋やリビングなど空間になじむ」。店に飾られた舛次さんの絵を眺めるのは、丹波篠山市(兵庫県)で木工と暮らしの店『6rock (ロク)』を営む荒西浩人さん。彼は舛次さんを親しみを込めてシュウちゃんと呼ぶ。荒西さんは16年ほど前に〈あとりえすずかけ〉でボランティアをしていた。シュウちゃんに接しているうちに、彼の才能に大きな刺激を受けた。この絵はその頃に購入した絵だという。当時、購入希望者はそれほどおらず、展示会に来た人や、身近な人には販売することがあったそうだ。荒西さんはボランティアをしていたときの話を懐かしそうに話してくれた。
「シュウちゃんは紙をじっくり見つめながら、穏やかに絵を描いていました。僕が話しかけると、にこっと笑い返してくれて。……いつも笑顔で難しい顔をしていることはほとんどなかったですね」。現在家具職人として活動する荒西さんにとって、舛次さんは「ものづくりの師匠」でもあるという。
「シュウちゃんや作品に触れるなかで、自分の思いのままに自由にものづくりをしていいんだって教えてもらいました。僕のものづくりに対する初心を思い出させてくれる存在でした」
荒西さんはボランティアをやめたあとも、6rockで展示会を開催したり、作品の額の制作を請け負ったりするなど〈あとりえすずかけ〉とのつながりを大切にしている。
周りにいる人たちのもの
兵庫県立美術館での展示にも荒西さんの手による額があった。「師匠」と「弟子」の共演だ。会場から出ようとしたとき、偶然にも舛次さんの母親の和子さんと叔母のつや子さんに出会うことができた。
「崇は私の父の影響で、小さい頃から野球を見ていたんですよ。阪神タイガースのファンで甲子園球場の試合をよく観に行っていました。試合が終わり、照明が消えても崇は帰ろうとしないんです。『出て行ってくださーい!』と、球団スタッフに言われるまで動かない」と、やさしい笑顔を浮かべて和子さんは思い出を話してくれた。
迷子になった話、相撲中継を見るのが好きだった話、新聞紙で甲子園を夢中で作っていた話。……あふれるエピソードからはアトリエにいるときとはまた違う、家族に愛されながら穏やかな日々を送っていた舛次さんの姿が見えた。そこに三栖さんも加わり、舛次さんの思い出話にいっそう花が咲く。みんなの心の中に舛次さんは生きている。
改めて思う。この展覧会は多くの人の協力によって開催されたが、それは作家本人のためであると同時に周りにいる人たちのためのものでもあったのだ。
舛次さんの作品を守るために
舛次さんが新たに絵を描くことはもうない。けれども〈あとりえすずかけ〉には500点もの作品が残っている。そのことについて三栖さんはどう考えているのだろうか。
「このまま〈あとりえすずかけ〉に置いているのが正しいとは思っていないんです。ですが、個人の手に渡ると散逸する可能性があります。それを避けるためにも国立や県立の美術館に収蔵してもらいたいと考えています。海外から展覧会の依頼があった際も、美術館ならスムーズに貸し出すことができるでしょう。いつか舛次さんの作品を研究したいという人が現れたときのためにも、できるだけまとめて保管しておきたいと思っています」
作品を一番いい形で守りたい。その思いを胸に三栖さんたちの新たな奔走が始まろうとしている。