芸術としての写真に関心をもつようになったのは、二十歳のときだった。
といっても、明確なきっかけがあったわけではない。「……なんとなく、写真かなあ」という直感にすぎなかった。
当時、写真はというと、かしこまって撮る記念写真や、「写ルンです」でパチパチ撮るものというイメージしか持ち合わせていなかった。皆無と言っていいほど写真のことをなにも知らなかった。
なので勉強として、写真展をとことん見て回った。規模の大小に関わらず、都内から県外まであらゆるギャラリーに赴いて写真展を見る。それと合わせて、毎日35ミリフィルム五本以上の撮影もしたり、写真集を何百冊と読んだり、中退することになるも写真専門学校に通って勉強をしたり……。
そんなふうに数年間、どっぷり写真漬けになっていたにもかかわらず、写真を心底から「おもしろい」とは思えずにいた。
ごくたまに、「あっ」と琴線に触れる写真作品と出合うこともあったけど、なぜそれを良いと感じたのかは、よくわからなかった。
いったい写真のなにがおもしろいのだろう。
数年間そんな疑問を抱えていた。
あるとき一人の写真家を知った。
ユジェン・バフチャル。スロヴェニア出身。1946年生まれ。
10歳のとき、事故で左目を失明した。さらに翌年、不発弾地雷に触れて右目に重症を負い、だんだんと視力を失っていって、13歳に全盲となったという。
盲目の写真家!
13歳までは見えていたというので生まれつきではないにしても、盲目の写真家がいるということに心が浮き立つような気持ちになった。傲慢な言い方になってしまうのだけれど、その存在は、生まれつき聴覚障害があるという身で、写真作家としての道を歩む自信をもてずにいた気弱なぼくを勇気づけた。
何より大事なのは、盲目かどうかという以前に、写真そのものがからだ感覚を最大限に活かした他に類を見ない素晴らしいものだったのだ。
ユジャン・バフチャルの撮影方法は、晴眼者のようにカメラのファインダーを覗いて撮るやり方ではない。
風景や町並みを撮った写真もあるけれど、ユジャン・バフチャルのからだ的特徴を最大限に活かした写真がある。
モノクロ写真。暗闇。皺の折り目がついたカーテンを背景にした女性モデルがいる。そのからだには十以上の無数の手が写り込んでいて、そこに光があたっている。手がある部分だけが浮かびあがり、くらがりに潜んでいる女性モデルの表情をじわりと浮かび上がらせている……という写真。
三脚に据えたカメラの絞りを開放にして、多重露光で撮影しているのだろう。写真を見るからに、その手は、そっと触れるのではなく、丹念に、執拗に、被写体をまさぐっている。そうやって被写体の位置や構図を確かめながら、手にスポットライトをあてていく。そうして撮られた写真だった。
フィルムの現像とプリントはラボに任せているそうだが、それでも写真はただ撮るだけ、プリントするだけ、ではない。自分の求める理想のイメージに沿ったプリントを、適切にセレクトして、作品へと仕上げていくという要が残っている。
バフチャルが写真をセレクトする過程では、友人たちの意見を聞いているのだそうだ。複数の友人の言葉を通して写真から浮かぶイメージを、自らのなかで再び創造する。そうして、再度撮影をしたりと試行錯誤を経て、作品へと仕上げていく。
この写真家は、盲目の、おのれのからだにまつわる感覚をめいっぱいに活かしている。
触覚で写真を撮る。 目だけで写真を撮るのではない。
言葉で写真を見る。 目だけで写真を見るのではなかった。
写真は、目「だけ」で撮るものではなかった!
こうして言葉にしてみると実に当たり前のことのようだけれど、ひとたびこうして言語化できたことで、一枚の写真が生まれてくるプロセスにあたって、ぼくはあまりにも「目」だけによりかかっていることに気づくことができた。
「見る」とは、ただ目を向けるだけのことではなかった。そのものに対して心が動くことでこそ「見る」が始まるのだった。
「気になる」「切ないな」「ああ、いい色だ」「ズキンとする」「愛おしい」「忘れたくない」……といった感情が動いてこそ、そのものにまなざしをそそぐことが始まる。そのとき、漫然と視線を漂わせる意思の薄い「眺める」ではなくなる。心を動かしたそのものに、まなざしを能動的にそそぐ「見る」が始まる。
感情の動きをかきたてるものは、からだ全体で感じている触覚、聴覚、味覚、嗅覚。さらには五感に収まらない未知の感覚が心の動きを強く、太く支えていた。
からだの中でぐりゅぐりゅとうごめいている内臓たち。ばくんばくんと脈動している心臓。りゅりゅりゅと全身をめぐる血液。このからだは、たったひとつ。自分のすべて。その確かさを噛み締めながら「見る」のだ。
こころがふくらむ時、からだの内外にあるものすべても同時に動いて「見る」ことへとうながしてくれていた。
ぼくが写真をおもしろいと思えずにいたのは、おのれの内側でうごめく内臓たちや、皮膚を撫でる微細な感覚との連結をずっぱりと切り離して、目ン玉ばかりを使って写真の表面を撫で回しているだけだったからなのだ。
「これはわかりやすくて売りやすいだろうな」「この構図いいな」「こうして組み合わせるのか、なるほど」「色がいい」などなど。要は頭でっかちの小利口さんでしかなかった。
視覚優位でもなく「視覚独裁」といっていいほど、目ン玉だけによりかかっていた。
目ン玉からもたらされる視覚の栄養を、目ン玉ばかりに与えてぶくぶく肥大させておきながら、他の無数の感覚や内臓たちが痩せ衰えていることにまるで気づいていなかった。
おそらくは、巷に溢れかえっている広告や宣伝、アイドル写真のような被写体が、わかりやすく鮮やかに伝わる写真ばかりを見ていたからなのだろう。そうしたPRのための写真は、一瞬ひと目見ただけでも伝わるようにと視覚を刺激することに特化している。
わかりやすい写真と日常的に触れていたことで、だんだんと他の感覚との連結が途切れてしまい、目ン玉だけが肥大してしまっていたのだろう。
だから芸術写真の「わからなさ」に居心地の悪さを感じつつも、気づかぬところで視覚を通して他の感覚と連結する心地よさを感じていたからこそ、ぼくは写真を諦めることができなかったのだ。
一枚の紙に残されたかつての瞬間を通して、視覚の栄養を、他の感覚や内臓にも分け与える。そして、それらが沸き立つかどうか、おのれのからだと対話するように写真を慈しむこともできたのだ。
おのれのからだを巡るものを意識して見ようとしたら、なにが面白いんだろうと悩んでいたのがウソみたいに、写真がおもしろくなった。
そうして気づいた感覚を元に自分の写真を見返すと、視覚独裁で撮った写真は、見た目がどれだけ鮮やかで、その瞬間やシチュエーションがどれほど上手かろうとも他の感覚を呼び覚ますことはなかった。それはもう本当に残酷なほど。
見た目がきれいなだけの写真は、冷ややかな情報にとどまったまま、目ン玉を通り過ぎていく。
視覚はおのれのからだの一部にすぎないということを骨の髄まで承知し、感情の動きに素直になって、皮膚の心地よさや、「お腹が空いたな、これうまそうだな。いただきます!」といったからだの内部の流れにも抗うことなく撮った写真は、たとえブレて、荒れてて、ピントが合っていなくとも、音が色めきたち、ざりっと皮膚が刺激され、芳香を漂わせた。
まさしく「見る」が劈かれたときだった。
ユジャン・バフチャルの写真には、「もうひとつのあの世界」とも言うべき異次元が写っている。明らかに盲目という障害が、その境地へと誘いでいる。からだと写真が密接につながっていて、断ち切ろうにも断ち切ることなどできない、その、おおっぴらに深いつながりの深さにもぼくは感動したのだ。
「障害があるからこういう表現ができるんだね」といった困難を抱えているからこそ素晴らしい表現が生まれるという、福祉と芸術界隈によくあるレッテル貼りありきのどうしようもない見方に辟易していた。馬鹿野郎とずっと思っていたし、今も思っている。
だから「写真さえよければ、障害があろうがなかろうが関係ないはずだ」という考えで写真に取り組んでいたけれど、ユジャン・バフチャルの写真に出合ったことで、そんな浅薄な意見からまたぐるりと回って、「障害があればこそ、だれも見たことのない新しい写真が見えてくるのだ」という境地に戻ってしまった。
ままならぬ困難なからだであるからこそ、そのままならなさに苦しみ、慈しみ、その先に広がる未知の豊かさを創造することができる。
ぼくもそうありたい、と思ったのだ。
*「劈く」の読みは、竹内敏晴著『ことばが劈かれるとき』(筑摩書房)を参照しています。