自分と違うものが存在することを認めて、おもしろがって、受け入れるために必要なことは「想像力」
絵本作家・イラストレーターのヨシタケシンスケさんの絵本『みえるとかみえないとか』(アリス館)は、障害がある人の身体感覚を研究する伊藤亜紗さんの著書『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)がきっかけで生まれた。
そこに込めたのは、「違っていても、わかり合えばいい」ということ。刊行記念のトークイベントで、「自分と違うものが存在することを認めて、おもしろがって、受け入れるために必要なことは、想像力」とコメントしていたヨシタケさん。
思えばヨシタケさんの絵本も想像力に満ち溢れた妄想世界。デビュー作『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)では、りんごがりんごではないかもしれないと疑い始めた男の子の想像が、ぐんぐん膨らんでいく。それは当然ヨシタケさん自身の想像によるもの。どうすれば、ヨシタケさんのように想像力の翼を広げていくことができるのだろうか。
おもしろがりかたの癖を分析して、想像を働かせるための素材を見つける
ヨシタケさんは、具体的にどんなプロセスでいろいろなことを想像したり、面白がったりしているのでしょうか? 方法論があるんですか?
ヨシタケ)
自分では自然にやっていることなので、客観視するのは難しいですね。ただ、どなたかの言葉で『想像力とは記憶力だ』というのがあって、何かを想像するためには、頭の中にたくさんの材料が入っていないとできない。それをいかに組み合わせるかが想像力だと。頭の中に入っているものが多ければ多いほど、想像力と言われるものに近い力を発揮できるはずです。そのやり方のひとつとして、自分がおもしろいと思ったもの、興味を持ったものをコレクションしていくという方法があると思います。
自分の興味をコレクションするとは、具体的にどういうことですか?
ヨシタケ)
誰もが自分のフィルターを通して世の中を見ているわけですが、ふだんあまり自覚することなく選びとっている。そこを常に意識して、どうして自分はこれに惹かれたのかを分析する。そういう癖をつけていくと、自分が何をおもしろいと思う癖があるのかがだんだんわかってきます。自分の嗜好の癖に気づくには、自分の反応に対して一度踏み留まり、いったん外に出す作業を繰り返すことが必要で、僕にとってのイラストを描く行為がまさにそうです。
自分に対する興味を強くもつことで、たくさんの「おもしろい」が見つかりやすくなる
ヨシタケさんは絵が描けますが、描けない人はどうしたらいいですか?
ヨシタケ)
絵でなくても写真でも俳句でも何でもいいんです。何かしら自分なりの方法でアウトプットする癖をつけておくと、後になって落ち込んだとき、そのコレクションが自分を支えてくれたり、救ってくれるものになるんです。
ヨシタケさんは、どこに行くにもスケジュール帳を持ち歩き、おもしろいと思ったモノやコトをスケッチしているそうですね?
ヨシタケ)
それが絵本やイラストのネタ元になるわけですが、絵本作家になるずっと以前から、その習慣を20年以上続けています。もともと落ち込みやすい性格で、ネガティブだからこそ、『一生懸命目を凝らせば世の中にはおもしろいものが転がっていて、捨てたもんじゃないよ』と自分を勇気づけるために、おもしろいものを見つけよう、何とかして自分をおもしろがらせようとしているんです。
みんなそうだと思いますが、どうにかして世界にしがみついて生きている。そのためには手がかりが必要で、僕は自分がおもしろがれるモノやコトに必死にしがみついているわけです。
どうすれば自分を納得させられるかということを常に探していて、それってつまりは自分に対する探求でもある。自分に対する興味を強くもつと、おもしろがりやすくなるということはあると思いますね。
想像力には限界がある。だからこそ、どうしたら相手にわかってもらえるか、イメージしやすい言葉を探す
何かをおもしろいと思うとき、その理由を対象となるモノやコトの中に求めてしまいがち。でも、その理由は、外ではなく自分の中にあるというのがおもしろい。
ヨシタケ)
何かをおもしろいと思えるかどうかは自分が決めることですよね。自分がどういう物事の見方をするのか、その癖をわかっていれば、何を見ても自分の側に寄せて考えられるようになると思う。
例えば、この人が作る作品は好きじゃないけど、着ている服が気になるとか、口癖が気になるとか、何かに似ているなとか。そういうものをすくい上げるきっかけを作れるかどうかが大事なんです。
マグロが目の前にドンと置いてあったとき、みんながお寿司を想像できるわけじゃない。どう調理して、どう加工されるとマグロがおいしいお寿司になるかということを知っていないと、マグロを見ておいしがることはできないわけです。
受け取り方というのは極めて個人的かつ生理的なものですよね。自分にとってのおいしさやおもしろさが、何に起因するものなのかをふだんから考えていれば、わりといろんなものをおもしろがることができるようになると思います。
”おもしろがる”と”おいしがる”はヨシタケさんにとっては同義語なんですね。ヨシタケさんは比喩がとてもお上手です。たとえ癖みたいなものがあるんですか?
ヨシタケ)
それはすごくありますね。伝える仕事をしていて常々思うのは、人の想像力には限界があるということです。だからこそ、どうしたら相手にわかってもらえるか、何に例えれば相手にわかってもらえるだろうかということを常に考える癖がついている。
これまでの経験上、食べものや料理に置き換えるとイメージしやすくなることが多くて、それは誰もがご飯を食べないと生きていけないという感覚を共有しているから。どんなに違う人でも自分と同じところは必ずあるんです。
おもしろければいいってものじゃない、でもおもしろがらないわけにはいかない。「違いをおもしろがる」ことの奥深さ
その共通項を探ることが想像力であり、わかり合うための手がかりなんですね?
ヨシタケ)
絵本『みえるとかみえないとか』の最後に、「おなじところを さがしながら ちがうところを おたがいに おもしろがれば いいんだね」という文章があります。僕が伊藤さんの新書を読んで、絵本で伝えたい、伝えなくてはいけないと思った一番大事なことが「違いをおもしろがる」ということなんです。
でも、違いをおもしろがるって、大人にとってもすごく難しいことですよね。余裕がないとできない。人はどうしても自分と同じものに安心するし、似た者同士で集まりたがるものだから。それを子どもに伝えるとなるとなおのこと。特に子どもにとっておもしろがるということは、自分と違う人を馬鹿にしたりからかったりすることと近いところにあるんですよね。
だからこそ、「おたがいに」というひと言を入れました。違いをおもしろがる大前提として、お互いにおもしろがることが大事なんです。
へー、君はそうなんだ、僕はこうなんだよと、お互いの合意があって、相手に敬意をもって接することで初めて成り立つ「おもしろい」なんですよね。
おもしろければいいってものじゃない、でもおもしろがらないわけにはいかない。それが「おもしろがる」ということの奥の深さであり、難しさだと感じました。
絵本にするにあたって、どんなところが難しかったですか?
ヨシタケ)
最初は単純に主人公に近い人に目の不自由な人がいて……、というアプローチからはじめたんです。でも、白杖を持って歩いている人の絵を描いてみると、どうしても可哀そうに見えてしまう。僕の意図とは関係なく、絵には言葉やイメージが結びついてくる。それは大きな発見でした。
単純に違いをおもしろがるということを伝えるときに、どういう設定にしたら、そういうものがにじみ出てこないストーリーになるのかを丁寧に考えることはすごく難しかったですね。
結局、舞台を宇宙にして、地球では健常者の主人公が宇宙人に障害者扱いされて優しくされて、ふだん障害のある人が味わっている気持ちを疑似体験するというふうにすることで、可哀そう感を排除できました。実はそれまで3年くらいかかったんです。
ぞわっと感じたのはどうして? 自分にとっての「当たり前」を考えることで、世界はもっと豊かになる
ヨシタケさんは創作する立場から、相手に理解してもらうために想像力を道具として使っているわけですが、アートを見るとき、受け取る側はどんなふうに想像力を使えばいいのでしょうか?
ヨシタケ)
アートというのは、それぞれの世界の捉え方をカタチにするもの。絵にする人もいれば、曲にする人もいて、粘土でたくさんブツブツをくっつけて表現する人もいる。いろんなやり方をする人がいて、こんなふうに世界を捉えている人がいるということに、まずは新鮮な驚きがありますよね。
それと同時に自分は世界をどんなふうに見ていたかということに気づかされます。作品がどう見えるかは、まずは自分に返ってくる。今の自分の状態をあらわしているわけです。常に自分にとっての作品という捉え方をすることが大事だと思います。
自分はなぜこれをおもしろいと思うんだろう? と自分を振り返る。自分との関係性の中で作品を捉えていくと、確かに楽しくなりますね。
ヨシタケ)
同じ作品を見て、すごいと感じるか、何かちょっと怖いと感じるか、どんなふうに感じるかは人それぞれ。重要なのはさらにその先で、言葉を超えた感覚とでもいうのか、見た瞬間にぞわっとする何かを感じたら、その感情が何から生まれたのかを立ち止まって考えてみる。それもひとつの想像力ですよね。
ふだん見慣れない作品だったからびっくりしたのであれば、その見慣れなさというのは、いつも自分が何を見慣れたものとして安心しているのかということの裏返し。まったく未知なものと出合ったとき、自分が当たり前だと思っているものが何なのかを考えるきっかけになる。
アートは、世界の見方を改めて気づかせてくれるものだと思うし、自分のものの見方を豊かにしてくれるものなんだろうと思います。
とはいえ、未知のものと出合ったとき、どう反応していいのかわからないことがあります。
ヨシタケ)
アートを鑑賞して面白がるには、ある程度の慣れが必要なんです。なぜなら、アートの世界が専門分野であるがゆえに、ひとつの教養のようになってしまっていて、アカデミズム的に「偉い人がいいというものがいい」という側面がある。アートをみる側がひとつしかみる視点を持っていないんですよね。だから作品に意見を求められても尻込みをして何も言えなくなってしまう。
僕にもアートを理解しなくてはいけないというコンプレックスがあったから、それはすごくよくわかります。でも、アートをわかる必要なんてなくて、もっといろんな視点でアートをみればいい。
その作品をいくらだったら買うのか、商品として楽しむのもありだし、今日は純粋に感動してみようとか、この作品を誰にプレゼントしたら嫌がられるだろうとか、そんなことを想像して選んでもいいわけです。そういう受け取り手の想像力の多様性みたいなものをもっと広めて、選択肢を増やしていくことが大切なんだろうと思います。