今回の共演者
平野信治
HIRANO Shinji(1975〜)
広島県生まれ。社会福祉法人〈創樹会〉にて活動。かつては、愛好するコメディアン、特撮ヒーロー、テレビ番組の登場人物を中心的な題材に、クレヨンを画用紙へ強く塗り込める描き方で制作していた。最近はほとんど創作をすることなく生活しているが、ときおり好きな芸能人の名前や顔のドローイングをすることがある。これまでに出品した展覧会として「アール・ブリュット・ジャポネ」(2010年、パリ市立アルサンピエール美術館)など。
これはシンプルだけれども、考えさせられる話。
男と女が結婚した。まだ学生だったんだけどね。まんなかのふたりがそう。早めに子どもが生まれて、幸せな結婚をして家庭を築いた。
ところが、それから20年たつと、外側の絵のようなふたりになった。夫はDVを働き、妻は夫の浮気を疑っていて疑心暗鬼。いいことはひとつもない。
なんでなんだろう。
なぜなんだろう。
どうして20年たったら、幸せだったふたりがこうなってしまったんだろう。
20年という時の流れと蓄積。
それはどういうことなのか、こうして経過していく時間はどういうものであるのか。これこそ教育で教えなくてはならないことだと、多くの教育学者は考えているのだけど、どうやって教えるべきかわからない。それが今の教育の大テーマなんです。それが大テーマすぎて、手を挙げて「こうしたらいかがでしょうか」という人は、まだ誰も現れないということを表した作品なんですね。これらの絵は。
でも、このテーマはクリアしないといけない。
だって、誰だってDVしようと思って結婚する人はいませんから。もちろんこの絵に描かれた彼だって、昔幸せだったことを忘れているわけじゃない。でもこういう状態になっている。すべてを疑って、誰も信じられない状態になっちゃっている。
時間の経過をどうしたら、教育の現場で教えることができるか。
いろいろな文献を探し回っていたなかで、あるときひとりの学者が目にとめたのが、この4枚の絵だったんです。これらの絵は、ただ無垢な気持ちで描かれたものでした。でも、ここにこそ生徒たちに教えないといけない「時間」が描かれていると感じた教育学者は、高校の倫理の授業で使う教材にした。
時間は止まっているものじゃない。ずーっと動いているもの。学校ではその流れ自体をつかんだ授業をしようとした。毎週月曜日の一時間目、倫理の時間だったので、みんな週明けで寝ぼけているときだったのもよくありませんでした。その時間の流れ自体を先生もつかみきれていないから、生徒だってわからないので、結局はうまくいかなかった。
ということで、この教材は使われなくなったけれども、この絵は残そうということで、どこかの学校では、下駄箱のところにこの4枚の絵が飾られることになりました。
これは20年前と20年後の夫の姿が描かれた絵。
なんとなく見えてくるものがあるじゃないですか。歯をむきだして、その歯は黄ばんでいて、凶暴というよりも、不気味で何考えているか心が読めない。
そしてこれは、20年前と20年後の妻の姿。
20年後の姿はどら猫みたいに、ひーっとした顔つきで、友好的に世の中とかかわろうという人物には思えないですね。20年前はそうではなく、もっと素朴だった。
こうした変化の理由を人の内面、性質に求める人もいる。もしくは社会的な歪みがあったからこそこうなってしまったという人もいる。
「こいつはもともとこういうやつだったんだ」という人もいれば、「いやいや、彼はまじめだったんだけど、社会が彼を歪ませたのだよ」という人もいる。
確かに知識人たちは、そういうことに理由を求めるけれど、よくよく考えると「だからなに?」という話しになる。そうした説明をしたところで、時間の経過の解明にはならないし、今後どうしていくべきかを考える力にもならない。現状をただ言葉で言っているだけ。
すでにおわかりのとおり、時間の問題は今という時間だけを扱っているんじゃない。
『国家占い』の学徒出陣も、『20世紀のスクラッチャー』のガラス窓カリカリにしても、時間がたってそうなったという時間の経過を扱っている。この作品はその集大成みたいなもの。時間の経過の中で、どうしてこうなったのかということを突きつけているんですね。
結局のところ、時間の問題はこれらの絵でしか実感することができないし、これらの絵がないとその問題にわけ入って考えることも難しいということを表している作品でもあるんですね。
だからって、「あんたも今にこうなっちゃうんだよ」って言われたところで、ぴんとこない。「昔はああだったでしょ」と言われたってぴんとこないのと同じように。
そう、いつだって「今」という時間のこともぴんとこない。
「昔はこうだった」というのはいえる。「今はこうである」ということもいえる。だけど、「これがこうなった」という時間の経過に関しては、どうしてだか言えない。人はその姿が自分だとは思わないからね。
だったら、これは誰も喜ばない絵なのか考えてみると、たしかに誰も喜ばない絵なんだ。だけど本質は表している。
「今」という時間は、すぐに理解できないから、ある程度の時間が必要なんだと教育学者は考えた。だから、20年前と20年後のふたりの絵を並べて飾って、毎日見ることにした。なんべんも、なんべんも、繰り返して見ていくことで、なぜ、この人たちがこうなったのか、だんだんと理解できていくことに気づきました。
時間をかけて見てわかるのは、「時間の経過とはこうである」という理解ではなくて、絵からのインパクトによって、「あ、こういうものなんだなぁ」とい見た人の中に溜まってくるような理解でした。そして、この絵があることで、それまであまり考える機会が少なかった時間の経過についても、自主的に考えるようになることもわかってきました。
つまりは、時間を理解するには時間が必要だった。時間というテーマはそれなりの時間をかけないと見えてこない。ここに「時間その2」がでてくるんです。
時間の理解が自分の中に溜まってくると、万が一暴力をふるおうと手を上げたときに、この絵のことを思い出して、「おれはあの絵になっている」と思いいたって、手を下ろすことがあるかもしれない。
そういう可能性も含めて、教育学者は「時間その2」にかけていくしかないと思ったのね。この絵を浴びる時間が必要だと。まるで「時間のレントゲン」のように。
レントゲンは、放射線をあてることで物体を可視化して、内部の様子をわかるようにしますよね。それと同じように、この絵も一定量の時間をあびることによって、見えてくるものがある。
普通だったら、実際20年という月日を過ごさないと、どうなるかはわからない。もしかしたら50年たってみないとわからないことだってわからない。だけど、それがわかったところで、それまで過ごしてきた現実は取り返せません。
この絵だったら20年という時間を凝縮して見ることで、もしかしたら1年後にはわかるようになるかもしれない。そうしたら方向を修正できるかもしれない。残りの19年が良いほうへ向かうかもしれない。
ということで、学校の授業で使われることはなかったけれども、この絵は残そうということで、今もいくつかの学校では、下駄箱のところにこの4枚の絵が飾られているんです。
(おしまい)
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました
もんもんとして過ごす時間の積み重ねのなかで、「時間ってなんなんだ」という問いに行き着いた
今回の妄想は、4つの絵の豹変ぶりからはじまりました。
男性、女性それぞれが別人とは思えず同じ人に見えた。するとこの男性の絵は、心の窓といわれる目が、ガラス窓を閉めちゃっているかのようで、どこにも辿りつけない目をしていると感じたんです。
女性の絵も、20年前は髭剃り跡があるような、ちょっといなかっぽい人だったのに、20年後にはどら猫のような目になって、とんがっちゃう。口もなんだか不気味な深海魚みたいになってしまっているので、どうして変貌したのかを考えた。
すると時間だなと思いつく。時間がそうさせたわけじゃなくて、こうなるまでに時間がかかったというだけのことだけれども、すると「時間ってなんなんだ」という問いに行き着いた。この年になってくると、時間ということが大テーマなんです。
実際、自分のこれまでを思い出すと、あのころああしていた記憶があるけれど、記憶って過去のものであるものの、そのときは現在のもので、そのときの現在は、将来過去として思い出されるであろう今である……、なんてことは考えてはいないじゃないですか。そのときは。
でも、どこかしらの時点で、過去を思い出すことがあって、そこには思い出す過去と、思い出さない過去というのがある。そして頻繁によく思い出すのは、おなじみの過去としてあるけれど、過去のなかにはおなじみじゃないもののほうが多いはずなんですよね。
でも、そうした膨大な過去をどうして思い出さないのか。それは時間と関係のない話なのか、思い出さない過去の時間はなんなのかとか、いろいろ考える。
いずれ死んでしまうけれども、時間全部を体得したい。一点一点の現在だけでなく、自分が生きてきた時間として手にとって、おれの人生はこの時間だったということを実感したい。抱きしめたい。でも、それはできないこと。
そういう歯がゆさが、もんもんとして過ごす時間として積み重なっていくから、この絵からも時間というものを感じてしまう。毎日同じことを繰り返しているつもりだったのに、20年30年たてばこうなってしまうこともある。本人たちは気づきもしないで。
「変わったね」とは誰にだって言える。「時間がたっても変わらないね」っていうのも、にある。
変わるんだったらいいように変わりたいだの、悪く変わらないほうがいいだの、いろいろ思うところがあるだろうけど、いいこと、悪いことを度外視して、ただ変わることだけを見ると、変わるために時間が必要であることは間違いない。
どうしたって時間はたっていくものだから、時間とそれぞれのありようを引き離しちゃうと、人間は捉えられるものも、捉えられなくなっちゃうんじゃないかな。
この絵のように変わっていくからこそ、人間であるともいえる。
正しさも、良し悪しもない、そのままを見せている作品から、ものごとの本質を考えたのは、そうした問に僕自身が飢えていたから
でも、どうせ変わるのであれば、疑心暗鬼にではなく、美しい人になったほうがいい。瞳もはっきりしたほうがいい。そしたことを思うと、そもそも人としての善悪とはなんであるのかをもう一度問い直さないと、という気にもなります。
善いもの、悪いもの、ってなんなんでしょうね。
たいがいは、言われるがまま学徒出陣みたいに行動してしまう。人間は素直なもんでね、こうすべきって言われたらこうするし、ああせいって言われたら、ああしてしまう。それの成れの果ての姿がこのふたりだとしたら、従前ってなに? 善悪ってなに? と考えてしまう。
やっぱり今回、コロナで停滞した時間があったからこそ、時間を考えたということもあるかもしれません。コロナで休んでいる最中にずっとこの絵を眺めていたからね。概念的なものはコロナで埋まってしまったから、もうちょっと形而上学的というか、ものごとの本質を問う話に私が飢えていた。
妄想をするうえにおいても、あまりにも激しく本質が変わる世の中だと派手なものに惹かれるだろうし、世の中が深刻だと本当の深刻ってなんなんだ? もっとちゃんと深刻に向き合えよって気持ちにもなるから、そうした思いもでているのかもしれません。
今回妄想してきた作品は、「こうしたほうがいい」「ああしたほうがいい」ということはひとつもいわない。どの作品もそこがいい。お説教ではない。正しさも、良し悪しもない。そのままを見せている。
今回、みなさんに問いかけているような妄想が多かったのは、僕自身が問いかけられることを求めていたんだろうな。コロナでなにかしたいんだけど、どうしていいのかわからない。だったら、自分が問いかけられるとしたらこうかな、自分自身で迎えるものを探していたのかもしれません。