作品をどう見せるのか――展示によって鑑賞者が受け取れるもの
ロジャー・マクドナルド(以下、マクドナルド):さて、カーディナル先生が執筆された本『アウトサイダー・アート』では、アーティストのバイオグラフィーに総ページ数の半分以上が割かれており、ここに重点が置かれていたことが見て取れます。
では、展示においてはどうでしょうか? どのような背景を持つアーティストが、どのような状況で生み出した作品なのか。展覧会での作品展示において、このバイオグラフィーをどこまで見せるべきか。美術鑑賞に作家の背景は必要ないという根本的な考え方もありますが、あなたが本を出版した後、1979年にロンドンのヘイワード・ギャラリーで開催したアウトサイダー・アートの展覧会で、このバイオグラフィーはどのように扱われたのでしょうか?
ロジャー・カーディナル(以下、カーディナル):バイオグラフィーの展示はしました。しかし、展示における重要な点は、1970年代後半、デュビュッフェが寄贈した膨大な作品をベースに開催された、スイス・ローザンヌでの展覧会にあります。展覧会の許可を得ることと、コピーライトの問題を解決するため、デュビュッフェは数カ月にわたり地方行政と交渉を行いました。そして、数々の物議を醸すこととなる展覧会を成功させました。
この展覧会の会場は素晴らしい古城で、巨大な納屋がありました。このような作品を、どこでどのように観せるのが相応しいのでしょうか。城の中は暗く、照明は作品の間近に設置されていたため、作品にどこか神聖な雰囲気が与えられていました。
マクドナルド:しかし、ヘイワード・ギャラリーでの展覧会は、ホワイトキューブの空間で行われましたね。
カーディナル:その通りです。ヘイワード・ギャラリーは古城よりも大きく、フレキシブルなスペースでした。私がローザンヌの展覧会で感じたのは、多くの作品を見せようとするあまり、スペースに対して作品過多になってしまっていることでした。
ヘイワード・ギャラリーでは作品同士の間に、しっかりとスペースを設けることができたのと、27メートルもあるマッジ・ギル01のドローイングの展示で多少の挑戦もしました。天井からこの巨大な作品を吊り下げることで、鑑賞者が作品以外の何も目に入らないようにするという、鑑賞者を作品の中へ没入させるための展示方法です。
マクドナルド:では、展示作家のラインナップについてはどうでしょう? たとえば、近現代のアーティストとアウトサイダー・アーティストを混ぜて展示を行った2013年の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ02に見られるようなアウトサイダー・アートの展開について、どのような考えをお持ちでしょうか?
カーディナル:この(さまざまな表現を統合する)展示方法は、すでにシュルレアリストたちによって思考され、探求されてきたものだと私は思います。シュルレアリストたちは、有名なアーティストから耳にしたことのないようなアーティストまで、そして、洞窟芸術や環境芸術のような別の芸術形態までを含む展覧会を開催していました。この試みは、アートを新しい方法で鑑賞することを可能にしたのです。
アンリ・ミショー03やサルバドール・ダリ04の作品を、パブロ・ピカソ05の作品の隣に配置することで、鑑賞者は“今何が起こっているのか”を感じ取ることができました。絵画はお互いに語り始め、シュルレアリスムがアンフォルメルやアウトサイダー・アートといった別の表現運動と重なって見えるようにもなるのです。
マクドナルド:確かに。そう考えると、20世紀初頭にドイツでおこった青騎士06のような運動にも同じ考え方がありますね。彼らもまた、現代アート、フォーク・アート、子どもや精神病患者の絵画など、異なる芸術形態を混ぜて展覧会を開いていました。つまり、今起こっていることの予想図は、100年前にはすでにあったということになりますね。
アート鑑賞とは、傍観者のフェンスを取り払い、批評家になること
マクドナルド:先ほど、ヘイワード・ギャラリーでのマッジ・ギルの展示について、“鑑賞者を作品に没入させる”とお話されていましたね。カーディナル先生が“アート鑑賞”についてどのような感覚をお持ちなのかを伺ってみたいと思っていました。先生ご自身はどのようにして作品にアクセスするのでしょうか?
カーディナル:作品を目の前にすると、まず“書きたい”という衝動が生まれます。君は日記をつけていますか? 自分が触れたアートについて、その都度文章に書き留めていくという行為は、誰をも批評家にしてくれます。自分自身がどのように感じたのか、その感情に相応しい言葉を導き出すのです。
マクドナルド:批評家というのは特殊な仕事ではないと。
カーディナル:そうです。あなたが作品と対峙して、どのように感じ、考えたのか。その特別な感覚を表現するための言葉を導き出し、あなた自身がそれを理解することが大切です。“強烈”とは、アウトサイダー・アートを説明する上で私が気に入っている言葉の一つですが、この“強烈”な感覚を生み出す作品を目の前にすると、自分自身に湧き起こる感情を完璧に言葉にすることはできません。そうした私の感情を、第三者である君が代わりに書き記すことなどできるでしょうか?
私がここで“強烈”という言葉を使って言いたいのは、“作品に集中すること”なのです。アウトサイダー・アーティストたちは、椅子にもたれながら「今日は終わりにして、明日もう少し落ち着いてから描こう」などとは考えません。創作の混沌に没頭するような態度が鑑賞する側にもなければ、作品だけでなく自分自身を理解することもできません。そして鑑賞者の多くは、そうした自分の発想を自分の言葉で表現することに、非常に臆病です。
マクドナルド:つまり、傍観者としてのフェンスを取り払い、批評家になることが鑑賞のあるべき姿だと。
カーディナル:そうです。鑑賞者が本当の意味で作品を観ることに関わるなら、それはリスクにもなり得る。アイデンティティやエゴ、信じてきたものが崩れるかもしれないというリスクです。たとえば、アーティストがいる世界では、私たちの世界にある現実的なわずらわしいことすべてが停止されています。このアーティストの世界に入り込めば、そこから現実世界を見渡し、その欠陥を裁くことができる。逆に自分自身の世界に満足することだってできるでしょう。そして、“強烈”の写し鏡のような“親密”という言葉を挙げてみます。あなたが生きていくと決めた世界、あなたが変えることもできる世界に、真の意味で参入することを表す言葉です。
アウトサイダー・アートとは、異なる世界を作ることでもあり、この世界とは別の複数の現実があることを知らせてくれるものでもあるのです。
アドルフ・ヴェルフリは、この世界ではない別の全宇宙を創り上げました。なんと勇気ある試みでしょうか。ヴェルフリの世界に接近し、あなたの言葉を導き出したとき、あなたはある意味アーティストが成し遂げようとしていることに協働しているのです。
しかし、彼の心的空間にあなた自身が存在しているわけではありません。彼の作品の中に、あなた自身を投影するのです。あなたに繊細な想像力があれば、色や形式などという美的なものの向こうに起こっていることが見えるようになるでしょう。
ヴェルフリの絵を思い浮かべてください。“あの顔”が絵の中心にあり、その周りのスペースを埋め尽くすように模様が描かれています。ヴェルフリの絵に描きだされたシンメトリーな表現は、型にはまった訓練によるものなどではなく、爆発的で暴力的な、血が噴き出すばかりの奇跡。紙の上に載せられた、彼の精神的財産です。
アウトサイダー・アートを観るということは、あなた自身が啓示を得ることができるかどうかの崖っぷちに立つということでもあります。そのことについて議論をしたり、その周縁で苛立ったりしながら、完全な説明のなされない世界の断片を探し求めるのです。
アート鑑賞とは、どんな作品にも存在する“盲点”を探し出すこと
マクドナルド:精神的財産を紙などの物質に落としていく。中国の宋時代初期の伝統絵画である水墨画も、一つのよい参考になるのではないかと思います。中国の人々は水墨画の様式において、心とエネルギー、手、墨、紙の関係性を高度なレベルにまで理論づけ、実践していました。心的状態、霊能的状態と、物質的なアウトプットとの関係が、この時代の水墨画に顕著にあらわれています。1000年以上も前に生きた作家たちにとっても、とても大事なことだったのだと。
カーディナル:そうですね。写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソン07もこの問題を扱っていましたね。“決定的瞬間”に起こる、精神と目と空間的要素との偶然に、彼は興味を抱いていました。
マクドナルド:絵画のような視覚的な作品からは、今も作家の精神が発せられていると私は信じています。アートとは“物質”に宿された精神そのものであるという、アニミズム的な理解です。
カーディナル:まさにその通りです。私たちはこの対話の中で“言葉による現象”を見てきました。おそらくピカソは、私たちがどのように語ればいいのかわからない、最初のアーティストだったと言えるでしょう。それでも、ピカソを言葉で扱うことは可能でした。デイヴィッド・ホックニーもそうです。彼らは、私たちに対して自らの絵について語ることもできました。
しかしそれでも、ピカソやホックニーの絵には、常に見過ごされている“何か”があるとも感じるのです。どれほどアーティストについて知っていても、どれほどアーティストが自ら語ってくれても…です。そして、アウトサイダー・アートにおいては、アーティストが多くを語ることはありません。一から始めなければならないのです。彼らの作品を観るということは、この見過ごされている何かを見出すことでもあるのですから。
マクドナルド:それは“盲点”という言葉に置き換えられますね。ピカソやホックニーほどの著名なアーティストでも、作品を深く鑑賞すれば必ず盲点が表れてくるということ。アート鑑賞の本質を指していると感じます。
カーディナル:そう、とてもいいキーワードですね。まさにこの“盲点”で、多くのことが起こっているのです。表には表れることのない、隠された性質。そこには第二の意味や、もしかすると第三の意味もあるでしょう。それを見つけるための旅の準備をしなければなりません。
マクドナルド:最後に、今日ではロンドンの〈ミュージアム・オブ・エブリシング08〉などをはじめ、世界各地で再びアウトサイダー・アートが注目を集め人気が高まってきています。それに伴って作品の価格が高騰し、マーケットが巨大化してきているようにも思うのですが、このような傾向をカーディナル先生はどう思われますか?
カーディナル:ある意味では、アウトサイダー・アートをそうした外的要因から守るためにできることはありません。しかし、周りの状況がどのように変化していこうと、仮にマーケットが巨大化して押しつぶされたとしても必ず蘇 ります。
私たちを取りまくすべてのものは、何らかの形で傷つけられる可能性があります。地球上すべてのものが同等に儚いということを認識したとき、破壊されたもの、残されたものへのノスタルジアが生まれてくる。この地球もまた、いつかは滅びる運命にあるのです。
マクドナルド:宇宙的なモードでこの対話を締めくくることができたことを嬉しく思います。ありがとうございました。