今回の共演者
滋賀俊彦
SHIGA Toshihiko(1958〜2013)
京都府生まれ。1976年信楽青年寮入後、丁番を組み立てる作業に従事したのち、1990年半ばころより寮内の造形班で絵画活動を開始。箸ペンを使って墨汁で描くスタイルが多く、画用紙に人の顔のようなものが描かれ、そこに伸びる胴体のようなものも見える。何を描いているのかは定かでないが、自然とできた空間とのバランスが独特の世界観を表している。現在も各地での様々な展覧会等に出展している。
これは不思議だね。絵に力がある。 見ているうちに「心を動かすメカニズム」という言葉が浮かんだんですね。
心って動きますよね。これは、なぜ心は動くか、こうやって心は動くんだよ。こうなって、こうなって、こうなって動いていく。こことここではぐるりと回転もする、ということを表した絵なんです。
これは、ひとつひとつ細かく見て、読み解いていく必要があるものなんですね。
数学でありますよね。「なんとか予想が証明された」とか、「なんとか問題が解決された」とかいう世紀の難問が。心理学の世界でもそうした難問があって、それが「どのようにして心は動くのか」ということ。これが大問題なんです。それを解こうとしたのが、西田幾多郎という哲学者の孫弟子だった。
西田哲学が言っているのが、主客未分化。主体と客体(*)とをわけるじゃない。このふたつをわける前の状態のことを「純粋経験」っていうらしいんですよ。これはほんとうにね。
その純粋経験を得たいとずっと願っていた孫弟子が、純粋経験の夢を見たんですね。座禅なんかを組んで、純粋経験とはどんなもんかを追い求めていた彼が、夢は純粋に違いないと、夢の中にそれを探し求めることへと挑んだわけです。
でも、夢だから、そこは姿かたちがない世界だから、僕が話しているこの話自体が妄想なんだけど、彼もその夢も単なる妄想かもしれないと思うの。でも、鉛筆を手にして、こんなものじゃなかったかな、夢の中でおれが見たものはと描いてみたのがこれ。
(注)*主体と客体 世界のありようを捉えるために用いられる枠組みのひとつ。世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類が存在。客体とは感覚を通して知ることができる「もの」であり、主体とは感覚を受け取る「意識」とされる。
けれどもまだ彼は、これがどのように「心を動かすメカニズム」として働いているかの確信をもっていない。こんなものが見えたと自動筆記のように、手にした鉛筆を夢中で動かしたんですね。で、ふと我に返ったとき、自分はなにを描いたんだろうと。純粋経験、純粋経験と念じていたから、そこから見えた、自分の心のありようであって、これこそが本当の心、純粋な心が動いた航跡で、その動きを描き写したのであろうと思うの。
これが本当に、おれの心を動かす原理であり、メカニズムの絵なのかどうか疑いをもって、次の日は緑のフィルターをかけてみた。夢の中で。
なんで緑かはわかりませんけど、フィルターにかけないとはっきりしたことがわからないので見たかったのでしょうね。夢の中で彼は実験をしていたんです。で、なんてことはない。ただ緑になっただけだった。
それでも彼の中で、自分が見たものは純粋経験に違いないという確信はぶれないんです。問題は、純粋経験で見たものはなんだったのか。そこがまだ曖昧だったんですね。
結局、フィルターをかけてはみたものの、どうってことがなかったから、これは失敗だったとわかる。次の日は、緑のサングラスをはずした。すると、これを見たんです。
なんと、エントロピーが増大しているじゃないかと。
無秩序になっている。育っているんですね。
その動きは回転するわ、モビールみたいにぶんぶん振れるわ、不規則にぴょーんと飛び出すものがあるわ。無秩序な運動体がそこにいたんです。
こうしたありようを見て、彼は確信するんです。これは間違いなく動いている。これこそが心を動かすメカニズムに違いないと。
心は静止のままではありません。心は動くものじゃないですか。だから、この絵も対応しているんです。そして、これこそが純粋経験のメカニズムの動きであって、おれはついにとらえたんだと確信するんです。
とはいえ、これはまだ彼ひとりの心の動きだけのこと。おれひとりではなく、ほかの人も見てみようと、今度はアメリカに行ってみたんですね。そこでアメリカ人の夢に入ったんです。純粋経験のメカニズムがわかったから、彼は夢の中に入れたんです。すると、穂のようなものが見える。それは麦の穂だったんです。
アメリカは移民で成り立った国。様々な人がいますが共通点がひとつ。パン食です。小麦が活動の源! さもありなんですね。
そのうえで、最初に描いた自分自身の絵を見直してみると、それは麦ではなく稲の穂に似ていることに気づくんです。あ、そうかおれは米食だから稲なのかと考察する。
その次はアフリカへ行ってみた。アフリカはシンプルで力強いんですね。
これもなにかの穂なんです。なんでしょうね。麦ではないけど、なんらかの穀物には違いない。そこで理解するんです。世界中、心を動かす糧は穀物だったと。
穀物は単に生理的な飢えを満たすだけでなく、心自体の糧でもあったんですね。米や麦、そのほか主食となる食べ物が。
しかし、実際、目に見える形でこうしたメカニズムが動いているわけではないので、これは予想図にすぎないんです。西田幾多郎の孫弟子である彼がとらえた「心を動かすメカニズム」なのですが、証明はされていない。本当にこんなものが、一人ひとりの中にあるかどうかということは。
それを突っ込まれるととっても弱い。ただ彼は、近い将来、この一連のスケッチが、彼の理論を実証するための予備的な考察になるんじゃないかと考え、今も一生懸命、夢の中の絵を描き続けているんです。
(おしまい)
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました。
人はひらめきとともに生きている。数あるひらめきから、妄想もまた生まれだす。
こうして語っている妄想のうち、8割が考えてきたもので、2割が即興です。
人間っていうのは、毎回、同じことはできないんだよね。なにかしらのメカニズムが働く。ひらめきを生むメカニズムって、あると思っていますから。
ひらめきというと、特別に感じるかもしれないけど、人ってひらめきでしか生きられない。ひらめいて生きている。
「そこを出て右に行こうかな、左に行こうかな」、
「あいつを切るか、切らないか。どうしたものか」、
そうした大切なときも、ひらめきと同時に生きているわけで、それしかないの。
舞台だったら筋書きは変わりません。だけど、同じ脚本でやっていたとしても、どうしたって日々変わっていく。内容のニュアンスや、ひらめきは毎回違う。何からも制約を受けない自由さです。ですからダンプカーが曲がるとき、「ご注意ください、車が左折します」と、いっつも同じ口調でアナウンスするでしょ? あれって可哀想なぐらいひらめきがないですよね(笑)。
妄想も、そんなひらめきのひとつ。
まあ、いってみれば、限界を設けないひらめきが妄想かな。
取材協力:山の上ホテル