今回の共演者
舛次 崇
SHUJI Takashi(1974〜)
兵庫県在住。1993年より〈すずかけ絵画クラブ〉にて創作活動を行う。現在は、創作活動を行っていないが、月に1度〈あとりえすずかけ〉で、穏やかに過ごしている。「あしたのおどろき」展(2020年 東京都渋谷公園通りギャラリー)などに出展。2021年 兵庫県立美術館ギャラリー棟3階 ギャラリーにて個展を開催予定。
一枚の絵を見ていて入口が見つかり、そこに入ってどんどん歩みを進めていくと、お話ができて、物語になっていくことがあります。
この絵の入口は「黒」でした。青もあるけど、黒とは別次元にある。それじゃあ、ここはどこだろうと考えたら、刑務所だったのね。
青がなにかというと、監視している光線のような視線なんですよ。
この刑務所には、建物を丸くして中央に監視塔をいれた歴史があるんです。そうすると、監視塔からすべての囚人を監視することができますから。その様子を刑務所の看守側から見れば、視線が矢のように放たれていて、囚人の側から見ればこんな。青が光っているように見える。この絵に描かれているのは独房なんです。
それじゃあ、これがなんの刑務所なのかというと、いわゆる二次元刑務所というものなんです。影が入れられている。この影というのは、比喩の影ではなくて、本当の影ね。この世界には自粛警察なんか目じゃないくらい怖い「影警察」というのがいて、目を光らせてる。悪い影をとっ捕まえようと。
彼らは罪の重さによって、こんな道具をつかった拷問にあうらしい。
引っ張られるわ、ギリギリされるわ、ごりごりとこすられるわ、ちょんぎられるわ、反抗するとこうなるよという噂が流れ、影の囚人たちはみんな怯えているわけ。
さらには、これを免れたとしても、巨大な怪物がいて食われてしまうという噂がかけめぐっている。夜な夜なエサを求めて、刑務所中をうごめいているんだと。放し飼いなんですね!
いちばん怖いのは巨大ホチキス。影をはりつけて、動けなくしちゃう。ガッシャン!
でも、その不気味な怪物や巨大ホチキスが本当に存在しているかどうかは、さだかではない。なぜなら彼らはしょせん影だから本当のことが見えない。影は影しか見えないんです。
そして、ふと思う。人がいるから影がいる。影が刑務所に連れられていったら、その人の影はどうなっちゃうのか。じつは、それは置き換えられた影なの。偽物の影をその人に置いて、本物の影は二次元刑務所に入れられている。
ということは、ひょっとすると、世界の人たちのほとんどの影はいつの間にか二次元刑務所にいるのかもしれない。そういわれると、「本当の影はもっとイキイキしていたな。昔はよく話しかけられて、しゃべったもんだけど、最近はないなぁ。影は影だよな」って感じる人もいたみたい。昔の影は、人間そのものとおしゃべりできていたんだね。
最近それができないのは、本当の影は刑務所にいるから。そしてこんな怖いものにかこまれて、びくびくしながら生きているのかもしれない。でも、それを知らないほとんどの人間は好き勝手生きている。たいへんなんだよ、影は。
僕たちが影だと思っていたものは、実は影もどきだった。昔の影は、ときどきにょきっとでてきては、二次元から三次元へと脱却しようとしていたものなのよ。
だから、影は刑務所に入れられたのかって? それがわからない。影の世界の善悪の基準がわからないんです。しかも、誰がこの刑務所を運営しているか、どうしてこんな監視システムがあるかもわからない。
影の刑務所所長だったら、こう言うだろうね。 「あんたたちの真似をしているだけですよ。三次元であるあなたたちの。次元はあなたたちのほうが上なんだから、こっちに聞かないでくださいよ」と。
二次元警察につかまって、二次元刑務所に入れられたら、最後はホチキスでとめられて動けなくなる。でも、それも影の噂なの。影の噂は七十五日。その頃になるとみんな忘れちゃう。怖い噂がまたはじめから刑務所中へと蔓延していくんです。七十五の繰り返し……。
(おしまい)
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました。
絵には僕をはっとさせるものがあるから、僕ははっとする。
僕がはっとするから、妄想の中でもはっとする展開が生まれる。
僕も絵を描くのだけど、普段は、描きながら、自分で考えて演じる人物を「こんな人かな」「この人がなにを言えばおもしろいかな」というように、描くことと、物語をつくることが一緒になっている。
絵を描く時間って、何秒で終わるわけじゃないから、たとえば一時間描いていると、その間に話が育つんです。なにかメカニズムのようなものが働いて、「あ、こうすると、こっちが動いていく」というように、物語が生まれてくるんですね。だから描く時間ってとても好きなんです。頭が止まってないから、どんどんわいてくる。
自分で描かずに妄想する場合は、まずは見る。そして、なにがいちばん心に引っかかっているのか、まっさきに目に飛び込んでくるのはなんだったんだと考えて「入口」を見つける。
この絵の場合、「黒」だった。そして、なんか見られているぞ。なんだこれは刑務所か。というように最初に印象深かったものを中核にして広げていく。話がおもしろくなるように育てていく。絵には僕をはっとさせるものがあるから、僕ははっとする。そして僕がはっとするから、妄想の中ではっとさせられる展開になる。これは同時に起こるものだと思う。実はそういうふうにできているんじゃないかな。そういう響き合いがいちばん楽しいです。
芝居のネタを考えるときはまた別。
僕が演じる人物の存在って、なにかが足りないと思うから、足らせようと思って、なにかをつけたり、あるいは過剰だと思うから減らそうとしたりする。たとえば「このままじゃ組織がうまく回らないから、なんらかのテコ入れをしよう」というネタをつくったとき、足りないものがある、あるいは余計なものがある、そこに加える、あるいは排除するのだとしたら、あいつを動かせばいいのか、それともあいつの知り合いのあいつを動かしたほうがいいのか、いろいろ思いをめぐらせます。
そのときの人物って、性格を描くというよりも、「なにか足りない」人がいるだけで十分なんです。だから、人物のキャラクターづくり、性格づけというのは、ネタをつくるときはかえって余計。僕は特徴的なキャラクターを、いっぱいつくっていますけどね(笑)。
人物の性格付けは、いちばん最後の楽しみにとっている。突然「きいいいい」と叫ぶ女とか、そいう特徴は最後にスパイスのようにつけています。
人って、足りなかったり、余計なことだったりをやって、がむしゃらになると、それがおかしくもあり、悲しくもあり、滑稽でもある。自分も含めてね。人って誰しも思い込んだら、周りが見えなくなって、そうなっちゃうよね。それはやっぱり滑稽ですよね。
取材協力:山の上ホテル