今回の共演者
高橋和彦
TAKAHASHI Kazuhiko(1941〜2018)
岩手県生まれ。(福)自立更生会〈盛岡杉生園〉にて活動。「Art to You!東北障がい者芸術公募展」(2015~2017年)、「生の刻印展」(2018年、徳島県立近代美術館)、「いわて・きららアート・コレクション」などに出展。2012年より岩手県立美術館に作品所蔵。
最初にこの絵を見たときは、どこかの町で行われている祝祭日だなって思ったんです。 牛や馬を引いた人、さらには馬とか牛に乗っている人たちが行き交って、たくさんの船や大きな張りぼてまで出ている。豊作や大漁を祈願するお祭りかもしれませんね。威勢のいい掛け声とか笑い声がたえない平和な瞬間がここにはあります。
祝祭日の最後には、巨大な露天風呂へと入りに行きます。みんなで汗を流すの。露天風呂自体も見世物みたいになっていて、誰かが入っている様子を見て楽しんでいるの。入りたい人は、入れ替わりで中に入る。このときもまだ祝祭は続いています。ともかく、おびただしい人がここにはいますよね。
そう、こんなにもたくさんの人がいて、そこに参加しているすべての人が幸せである。 そのことがこの2枚の絵の説得力として強く訴えてくるんです。それがまずあった。
ところが、次の絵になるといきなり変わるんです。
それがこれ、学徒出陣。 さっきの幸せの日々から突然、戦争にかりたてられた。 出陣しろと。すると、若者たちは従順だからそろってでかけていくんです。こんなにも笑って、希望にあふれた顔をして。悲観的な顔がひとつもないのは、今の幸せを脅かすやつがいるから戦うんだということをいわれているから。だったら、喜んで命を捧げようとなるでしょう。
そうしたら、次はこれです。
犬や猫も招集されたんです。
彼らは北で戦う兵士の命をつなぐために毛皮をはがされる。こんなにかわいい顔をしているわんちゃん、猫ちゃんも命を捧げるんです。これはかつて日本でも本当にあったことだそうです。ペットにしていた犬と猫を山に逃して隠れた人もいた。
* * *
この町の記録はここでおしまい。
でも、大切なのは「このあと、どうするか」です。
学徒出陣した若者には、招集された犬猫ともども、悲惨な運命が待っています。できることなら、1枚目の絵のような平和な祝祭日に戻りたい。だけど、たとえ戻ったとしても、また同じことを繰り返すかもしれない。それはつまり永劫回帰なのかと、この絵から問われるんです。そうならないためには、なにをすればいいのかと。
日々の小さなことではなく、大きな考えをみんながもって、「こっち」に行かないようにするにはどうしたらいいかを考えていこう。そんな大きな難問をつきつけられる作品なのです。
「歴史は繰り返すからしかたなないんだよ」という人もいるかもしれません。でも、繰り返してしまうからこそ、繰り返さないためにはどうすればいいんだろうと考える。その分かれ道はどこにあるのか。
2枚目、温泉に入るまではいいんですよね。 問題はここですね。3枚目、学徒出陣をどうするか。彼らが笑っていなくて、本心は行きたくないんだけど、反骨をアピールしたいから歯を見せず、全員が無表情でいる。それはそれで怖いし、また別の悲しい運命がある。
だから、まずはここに並んじゃいけないということですよね。ここに並ぶことを拒否する。ここへは自由意志で来たわけではなくて、強大な組織のシステムが働いている。であるのに、自分の意思で来たと思わされている。そうした内面支配がいちばんこわい。
でも、4枚目の犬と猫。彼らはマインドコントロールされていない。だから意外と、この連鎖を断ち切る鍵は、彼らにあるのかもしれないね。彼らが気づくと、飼い主も気づくだろうから。犬や猫のほうが、人間の不気味さ、あるいは理不尽さを理解できるのかもしれない。人間はいろいろなことをすぐに信じてしまうからね。 (おしまい)
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました。
妄想から絵を見ると、いつの間にか知識が消えて「具体」の経験が生まれる
妄想を始めたのは、3枚目の作品から。これがいちばん中心となる絵ですね。みんな同じ顔をして、同じ方向を向いている。不気味ですよね。人がランダムにいて、いろいろな方を見ていればそれほどでもないのだろうけど、この整列させられたありようからは、規則、規範、型にはめられていると感じられる。これだけの人がいて、それに反抗する人がいなく、みんな従順に並んでいる。その従順さが怖いんだろうね。
こういう発想を得て感じられることは、本を読んで得られる知識とは違う。歴史の教科書を読めば「日本は間違った歴史を歩んでしまったんだなぁ」って漠然とは理解できるけど、こうして絵を目の前にして、「あそこにいたあの人たちが、あんな顔して学徒出陣したんだ」と思い込んじゃうと説得力が違ってきますよね。こういうことって、知識で理解できるものじゃない。知識は「目に見える具体」とは違うから。
学徒出陣の映像を見て、学生たちが行進していたことを知ったとしても、それだって知識ですよね。逆に、この作品を学徒出陣だと妄想する。そうしてその妄想から絵を見直すと、知識が消えて作品が前にくる。知識が消えたら、その場に居合わせちゃう。その光景を見せられちゃう。その説得力は、知識のそれと次元が違うものだと思うんです。
芝居をやっていると、知識ではどうしようない部分があるんです。 知識で演じるって無理。だって、ハートとか、汗とか、こんな気持だったとか、具体であり直接なものだけがお客さんを動かすから。
たとえばシェイクスピアの芝居で、王様が別の王様を暗殺しようとしている。怖気づいちゃっているんだけど、奥さんが「あんたしっかりしなさいよ、王様になりなさい」と言う筋書きが、台本を読んで知識としてあったとする。それでそのとおりに演じてみたとしても、お客さんはなんの感動もしない。「マクベス」という王様が、舞台の上で実在しないと、お客さんは打たれるような気持ちになったり、愚かだなと思ったり、心を動かされたりすることはない。 知識はもちろん必要なんですが、最終的にはどれだけ知識から逃れられるか。それが僕の永遠のテーマです。
生きている姿、生きているということそのものに肉薄する。その方法ってあるようでいて、ない。こうすれば「生きる」を演じられますよというメソッドはないから自分で見つけないといけない。だって、自分は自分でしか生きていないわけだから、「僕がとらえる生きる人物はこういうものだ」ということは、僕しか発想できないわけですから。
絵を見るときも、そういう姿勢で見たいなと思っています。
絵に力があるとか、ないとかの問題ではなくて、「僕がどう見たいか」ということなんだろうな。自分のなかにそういう思いがある。そうして見ること自体、もうすでに妄想と呼ぶのかもしれない。生きていることそのものに肉薄したいと、イコール妄想。生きること、そして現実の世界はいくらでも解釈しようがあるからね。
取材協力:山の上ホテル