発達障害にも良い面がある
取材場所の掛け軸を見つめ、「なんて書いてあるのでしょうね」と、柳家花緑さんはつぶやいた。字が大胆に崩してあり、取材陣も正確な答えが出ない。
「めぐみ、……かぜでしょうか」と答えると、「そうかもしれませんね。なんでしょうねえ」と花緑さん。仲居さんが「恵に風で、けいふうと読みます」と教えてくれた。
「誰も読めませんでしたね」と笑いが起きた。
花緑さんは識字障害を公表なさっていますが、ご自身ではどのように理解されていますか?
僕は字の読み書きが苦手で。でも興味はあるんですよ。苦手なんだけど本を読みたい。苦手なんだけど字を書きたい。非常に変わった男なんですよ。みんなに発達障害があるといっても、嘘だといわれるんです(笑)。
コンピューターでいうところのバグですね。プログラムはなおるけれど、僕の場合はなおらないバグです。まあ、そういうコンピューターと共に生まれてきたということです。
だから、そこと付き合っていく。だけど、ダメな部分があったとき、脳はほかの回路が開くのか、僕には過剰集中や他のひらめきがあるように思います。
過剰集中というのは発達障害の強みの部分ではないでしょうかね。僕は絵を描くのが好きなのですが、いつまでも描いていますし、話だって好きだからずっと喋っていられる。まあ、好きじゃなければ続かないのですが(笑)。
『僕が手にいれた発達障害という止まり木』では、小学校時代の通知表を公開されていました。見事に1と2が並ぶ中、音楽と図工は優秀という……。
あんまりいないんですよ、通知表を公開している落語家は(笑)。たしかに音楽と図工は良かったですね。あとはやる気が無いんで……。
これは発達障害の二次災害だと思っているんです。小学1年から授業についていけず、2年生で完全に遅れていた。全くやる気がしない。
周りから、「小林君(花緑さんの本名)はバカだ」と言われると、自分でもそう思っちゃう。宿題が出てもやる気が起きないからやらない。文字が読めないんだから、教科書を使う授業全般が嫌になる。
その中で、音楽と美術は教科書があってないようなものです。勉強ではなく、遊びだと思ったものが、成績がついていた感じですね。
花緑さんは小学生で落語家のデビューをしました。環境は大きく変わりましたか?
9歳から落語家を始めた。しかも柳家小さんという大変有名な人の孫だったもので、デビューした途端に週刊誌、新聞、ワイドショーに取り上げられた。すると、学校で人気者になりました。学校では勉強についていけない“バカな小林くん”だったけど、落語があることで一目置かれるようになった。
もし、落語がなければいじめにあっていたと思う。実際、いじめっ子は学校にいたし、次は自分がいじめられる番かと怯えていましたから。……落語が僕を助けてくれたと思いますね。
落語家は人間の多面的なものを当てはめていく
落語の登場人物には様々な人が登場します。まさに多様性のある世界ですね。
そうですね。落語には与太郎や八五郎たちが登場する。話し手によって彼らの性格が変わる。やさしい八五郎がいるかと思えば、乱暴者もいるし、仕事ができる者、だらしのない者もいる。名前があるだけで性格は決まっていない。落語家はキャラクターに人間の多面的なものを当てはめていくんです。
落語は道徳ではありません。酔っ払って嘘を付く人も登場するし、浮気をする話もある。主人公が泥棒で一所懸命泥棒をしようという、社会的にはあり得ないものを描くこともある。「落語の世界」の笑いを感じ取ってもらうものなので、教えを説くなんてものではない。非常に下世話なものなんですよ、落語ってね。
落語にも「おそらくは発達障害じゃないかな?」という人が登場します。与太郎という人がいます。彼は周りからバカだと言われるけれど、立川談志師匠は「下手すっと、誰よりも頭が回って思考がよくって、長屋の住民が想定できないことを言ったときに、周りが理解できないからバカと呼んでいるだけ。一番頭がいいのは与太郎かもしれない」と、問題提起をした。
だから、談志師匠の噺に登場する与太郎は相手の話をギャクで返したり、屁理屈を言ったりする。だけど、とんでもないことを知らなかったりするんですけどね(笑)。
『平林』という噺には、読み書きができない定吉くんが登場する。これを学がなかったと解釈する落語家もいるけれど、僕はそうじゃないかもなと思うんです。寺子屋に通ったけれど、発達障害で字を憶えきれなかった可能性がある。だから、この噺をするときに、自己紹介落語ですというんですよ(笑)。
ご自身が「発達障害」ということを知り、それを受け入れたときに楽になったと著書に書かれていました。
ええ、発達障害という存在を知るまでは「努力をしない自分が悪い」と思っていたんです。だけど、自分のせいではなく発達障害だからだと知ったのは、大きな力を得た感じです。
それで2017年に『花緑の幸せ入門「笑う門には福来たる」のか?~スピリチュアル風味~』(竹書房)の本の中でカミングアウトをしました。「発達障害」という言葉は、僕にとって「寄りかかれる」言葉ですね。
だけど、「発達障害はわかるけど、花緑さんはそうじゃないよね」と言う人がいるんです。きっと、優しさを持って言うんだけどね。
でも、「僕が発達障害じゃない」ってことは「バカな小林くんに戻れ」ということなんですよ。「そこからやり直せ」、「努力しろ」と。違うんですよって言うんですけどね。……本を読んでくれた人はそんなことは言わないですけど(笑)。
僕が思うに落語家には発達障害の人は多いと思いますよ。特に有名な人は多いですね……。いろいろと条件が当てはまる(笑)。
ある師匠に僕の書いた本をお渡ししたら「おんなじだよ、俺と!」とおっしゃっていました。小さい頃は話し出したら止まらなくなって縛られて廊下に立たされていたって。
祖父の柳家小さんは噺を1度聞くと憶えたそうです。午前中、師匠に稽古をつけてもらって、その日の夜に高座でやったそうです。すごい集中力。しかも、誰よりもうまかったと聞いています。これも過剰集中かもしれないですね。
花緑さんは落語を憶えるのにどれくらい期間が必要ですか?
噺と自分との距離によりますね。前座の頃から聞いていた噺だと憶えやすい。短いから憶えやすい、長いから憶えにくいということも。演目によっては取材が必要なものもありますし。記憶するのだけだと3日くらいでしょうか。台本を書き、それを喋って録音して、繰り返し聞いて憶えるんです。ある程度形になったものを客観的に聞き、変更を加えていく。
……だけど、忘れてしまうんですね。芸ってのは本当に切ないもので、ザルに水を貯めるようなものなんです。時間とともにどんどんゼロになる。この間できたものが再現できるとは限らない。やり続けてないと。今度は老いがくるでしょう。祖父が年をとった姿を見ていると、たいへん切ないですね。
お弟子さんの中にも発達障害の方がいると著書に書かれ、対談も収録されていましたね。
ええ。花飛という弟子がいます。彼は自閉症スペクトラム障害(ADS)と注意欠如・多動性障害(ADHD)という、僕とはまったく違うタイプの発達障害です。花飛くんはコミュニケーションがうまくないので、よく誤解されてしまう。だいたいの会話が「はい」「いいえ」で終わってしまうんです(笑)。
だけど、僕とは違って勉強はよくできたようで理系の大学に入ってるんですよね。それに彼は新作落語を作るんです。彼の台本を読むと、とてもよくできている。
おもしろいのが、噺のなかではちゃんとコミュニケーションが取れているんですよ。自分ではできなくても、噺のなかではできている。もしかすると、これから落語がうまくなることになって、日常のコミュニケーションが上がっていく可能性がありますね。
僕の所に来るまで、職場でうまくいかなくて転々としていたけれど、彼も自信を持ってきたと思います。……もう、10年近くになるのかな。落語家が一番長く続いていますね。だから、彼を弟子にとって本当に良かったなと思います。
お話を聞いていると、落語家にとって発達障害はある種のギフト(贈り物)なのではと思います。
僕には喋りたいという衝動性がある。とにかく話をしたい。「今、喋ってはいけない」という時に、つい話をしてしまう。
……疲れているほど、制御が効かないので、いつまでも喋ってしまう。落語でいうと、本題に入る前に枕が長くなる。気づくと一時間も枕をふっている。本題に入ると「え? ここから噺に入るの?」って、お客さんもくたびれてしまう(笑)。
「コミュニケーション」というものは双方の関係です。私の知る限り、発達障害の人はどれだけ迷惑をかけているかに気が付かない場合がある。だから、関係した人に「なにか、不都合はありませんでした?」と、訊いたときに「しゃべりすぎて迷惑したよ!」なんて、言ってくれる人がいると、そこで初めて自分のことを知ることができる。
でもそれは、自信を無くした時にはできないコミュニケーションなんですよね。(注意されても)傷つかない自分でいるためには、自分のレベルをもっと上げていかなければならない。
どうすればいいか。それはやっぱり、勉強じゃないですか。「生きるとはなにか?」という哲学なども含めて。様々な物の考え方を知るのが勉強なんですよね。勉強し、情報を引っ張ってきて、自分に落とし込めるか。
結局、勉強というものは「自分を生きやすくする工夫」なんじゃないでしょうか。健常者だろうが発達障害だろうが関係ない。
「競い合いからの学び」に終わりを告げた時
多様性のある社会にするには、どうすればよいとお考えですか?
もう、自分の中には答えがあるんです。それは、教育です。我々が受けてきた一斉指導が終わりを告げた時、「発達障害」という言葉を失うと思います。
もちろん、これまでのように全部学びたい子は学べばいい。だけど、算数をやりたい子は算数ばかりやればいいと思います。音楽は音楽、美術は美術だけやったらいい。全部学んでいた子が「英語だけやりたい」というのでもいい。
僕のイメージに近い教育は江戸時代の寺子屋ですね。子どもによって教科書がそれぞれだったそうです。八百屋の子は八百屋で使う字を習う。
もちろん、先生が同じ事を教えることもあっただろうけれど、それぞれが違うものを体得していった。寺子屋で最低限必要なものだけを憶えて、あとは仲間と協力して生きていくという……。一番いいんじゃないでしょうかね。
江戸時代に戻ろうとは言わないですけれど、寺子屋のシステムにもいい部分もあったんじゃないかなと思いますね。
寺子屋のような生き方、学び方をすればいい。これまでの「競い合いからの学び」が終わりを告げて、教育が大きく変わったときに、多様性が当たり前の世界になると思います。そこで、成績の順番をつけることや人と人を比べることのナンセンスさに気付くんじゃないでしょうか。