今回の共演者
山崎健一
YAMAZAKI Kenichi(1944-2015)
1944 年、新潟生まれ。方眼紙に描かれた作品は、専門家用の製図道具を使用して、ほとんど同じ手法で描かれている。その手法は、コンパスの針で何目盛りかおきに穴を開け、それをアタリにして線を引いて形を描くというもの。裏面には規則正しく無数の針穴が並んでいる。「こういうものを描く時にはこの道具でキチンとした図面を描かねばならない。私は大事な仕事をしているのだから」と誇らしげに語っていたという。描いているモチーフは3種類で、ひとつは整然と並んだビルの窓、ひとつはユンボやクレーンを搭載した大型船、もうひとつはコントロールセンター。精神病が発症したのは20代の半ば、東京の土木建設の出稼ぎ労働者として働いていたころ。入院していた精神病院では、毎日規則正しいペースで作品を描き、3000枚近くが、彼の手できれいにファイリングされていたという。
「これは設計図だな」とは思っていたのだけど、なんの設計図かということがわからなくて2〜3日考えていたの。それででてきたのが、「そうかこれは原子力発電所の設計図で、しかも事故を起こさない、絶対に安全な原子力発電所の設計図だ」ということ。
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おそらく、スイスかどこかで描かれたものじゃないかと思うんですね。なんべんも描き直して、設計者のもてるすべてを集めて、「これぞ安全な設計図だ」というものがようやくできたんです。けれども、スパイというものはいるもんで、これらの設計図が盗まれてしまったんです。
盗まれたといっても、どうせこれをもとに作られるものは絶対安全。悪さをしてやろうって設計図ではないから、警察の捜査も非常にゆるかったのね。
それでしばらくの間、行方知れずだったものがひょっこり現れた。さるオランダの画廊で、設計図の一枚一枚が、美術作品として発表されたんです。そのときの触れ込みが「でた! 未発表のカンディンスキー」という宣伝文句!
画廊に来る人はみんな、「なるほどカンディンスキーの抽象画だな」といってふんふん頷いて感心して「さすがカンディンスキーだ」と、高値で売買されていくんです。でも、その中にひとり、かつての原子力発電開発に関わっていた人がいた。
「ちょっと待てよ、これはあの設計図に似ているけれども……」ということで、関係者を集めるんです。続々と集まってきた関係者のために、ある日、その画廊を貸し切りにして、一枚一枚の絵を点検する日をつくりました。
「これはまさしく、何年か前になくなったあの設計図だ」 「これがあれば世界が平和になる」 「これはこんな画廊なんかで見せているもんじゃないんだ」 「これで絶対安全な原子力発電所をつくらないといけない」 と言って、関係者はその設計図をごっそり持って行っちゃった。
ところが、これをもとに設計してもらおうとなったとき一枚多い。 そう、足りないんじゃなくて多い! 実は本物のカンディンスキーの絵が一枚紛れ込んでいたのです。 それがこれ。
ね、全然混じっていてもおかしくないでしょう。 これをもとに発電所をつくろうとやってみても、どうしても完成しないんですね。どこかが余計なんです。だって、これがカンディンスキーの絵だとは誰も思っていない。これは絶対に設計図の一枚だと信じて疑いませんから。 だから、その安全な原子力発電所は、いまだに完成していないんです。
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術~その4>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました。
見る側の中でわくわくする、創作者に近い鑑賞法
美術を鑑賞する方法っていろいろあるだろうけど、僕の鑑賞のしかたは創作に近い。創作鑑賞っていうのかな。鑑賞でも、創作できるんです。そっちのほうがうんと楽しいし、自由だし、「しちゃいけません」はひとつもない。自分がどこまでノッていけるか、つまらなくなるか。楽しめるか、楽しめないかがあるだけで、しちゃいけないことは一切ない。 たくさんの知識や情報がある今、ピュアな目で美術作品に接する機会って、今とても少なくなってきている。「ゴッホの◯◯の絵が来た」というように見る前から情報がインプットされているし、絵自体も初めて見るわけじゃなくて、すでに鑑賞した絵を自分で見直している。そのときに、僕を含めて試されている気がするんです。「新たに鑑賞できるのか」って。 アートがすでに鑑賞されているはずだという「商品」になっているから、そのあたりを近代美術の人たちは逆に作品化していったと思うんです。「なにも新しいものはないよ」といって、スープの缶詰だとか、窓だとか、便器だとかを作品にして、「見る側の問題だよ」というように投げ返された。 だから、結局は「見る側のなかでわくわくしないと」という時代なのでしょうね。その方法を、今、多くの人が探している。 たとえば、フェルメールの絵は、絵自体に物語が入っている。絵の中に物語が埋め込まれているんですよね。集中して手紙を読んでいる女の人がいる。「何が書かれているんだろう」って、自分が反応していくっていうか。こうして自分でおもしろがる入り方を、思いつけば楽しいよね。 作品から妄想して、小さな物語を紡いでいくのは、すごく楽しい時間でした。妄想しやすいもの、そうでないものはあって、今回の『活気のある安定』のお話は、2〜3日頭の中にあって、どうしたら「自分が一番楽しめるかなぁ」という入口を探していて、「絶対安全な原子力発電所」というのにたどり着いて、そのあとにカンディンスキーがでてきた。 こうした作品というのは、見ている人をねじふせるような力ではなく、呼び起こす力、刺激する力がすごくあると思います。