なぜ描くのか――アウトサイダー・アーティストの内面をめぐる考察
ロジャー・マクドナルド(以下、マクドナルド):彼らが創作を始めるきっかけは、本当に些細な何かなのかもしれません。
ロジャー・カーディナル(以下、カーディナル):たとえば、スコッティ・ウィルソン1は、トロントの古道具屋で見つけた万年筆をもてあそび、テーブルの表面に即興で描くことからキャリアをスタートさせました。私たちがアウトサイダー・アーティストと呼ぶ多くの作家たちが表現方法を見出すきっかけは、凡庸であると言えるでしょう。しかし、彼らの作品は並外れています。(精神疾患の作家がアール・ブリュットの中心に捉えられているヨーロッパにおいては)創作の動機は、過去の出来事からの傷や失望、トラウマであることが多い。不幸なことが人々に起こりうる理由は、無数にあります。その不幸によって、すべての人が絵を描いたり、視覚物をつくるわけではありませんが、ある人々はそうするのです。自らを表現する必要に駆られて絵を描く……その次に浮かんでくる問いは、「誰に向けて描いているのか」ということです。ある人たちは、人生にとても満足しており、常に大切に扱われ、失望を経験したことなどないかもしれません。しかし、80歳となり、人生を締めくくる準備ができたとき、何かがきっかけとなり勇敢にも絵を描くことを始めるということもありえるのです。
人はなぜ、絵を描くのでしょうか。“何か”が絵を書くことはいいことだと“あなた”に感じさせ、幸せな気持ちにさせるからです。そんなとき“あなた”は決して人に急かされたくはないと思うでしょう。たとえば、5時までに絵を仕上げなければならないと思いスケッチに取り掛かっても、それは最高のものにはならないはずです。学校などで行われているように絵を描くことを強制されると、人々の内面にある最高のものを引き出すことなどできません。
マクドナルド:とても根源的なアートのあり様ですね。
カーディナル:そうです。そして、それは絵である必要もないかもしれません。彫刻、走り書き、グラフィティ、ロンドンのナショナル・ギャラリー前の歩道の上のチョークの落書きでもいいのです。描くことは、“あなた”が差し迫っていると感じる何かを、外の世界に伝える手段です。他の人たちから理解をしてもらうために。そしてより大切なのは、作者である“あなた”自身に理解されるために。これはアーティスト全般においても言えることではありますが、作品は自分自身の内側からやってくることを知っています。また、上手くいかなかったところ、紙からはみ出してしまい、後で付け加えなければならないところも覚えています。自分の作品を親密に知っていて、何年か時が経っても自分の作品を認識することができるのです。
そして彼らは、必ずしも自身の愛着ある作品を売りたいと思っているわけではありません。この対話において、私たちが前提としているアウトサイダー・アーティストたちの多くは、美術教育を受けることもなく、アーティストとして働きたいという欲望があったわけでもなく、そのための資金も持ちあわせてはいませんでした。また、こうしたらいいというアドバイスをくれる人も家族にはおらず、実社会においても「あなたの作品は素晴らしい。ギャラリーを運営している友人に見せてみよう」と言ってくれる人などもいませんでした。しかし一方では、作家としての彼らをサポートするということは、リスクを伴うことでもあるのです。
マクドナルド:作品が評価され、ギャラリーで売られるということが、作家が望んでいなかった状況をもたらす可能性があるということですね。
カーディナル:そうです。スコットランド出身のウィルソンは、文盲でしたが独学で表現力を身につけ、露天商をしながら絵を描きつづけていました。お金にはさほど興味はなく、屋台に貼った絵を気に入ってくれた人には二束三文で売り、トロントでは展覧会に1、2度参加しただけでした。ところが1952年、彼がイギリスに戻ると、その才能を見出す人々が現れたのです。あるとき、ロンドンのギャラリーでは、彼の作品が豪奢 な額に入れて展示され、シェリー酒が振る舞われるようなオープニングが開かれていました。ウィルソンは、外からギャラリーを覗き「これは自分ではない」と考えました。そのとき、彼はギャラリストに見せるつもりだった絵を数枚持っていました。ギャラリーの中では1枚150ポンドもの値で売られている、その自分の絵を、ギャラリーの目の前の路上で、通りすがりの人たちに破格の値段で売りさばいてしまったのです。
多くの作家たちが、求めても得ることのできなかった “無意識”への憧れ
マクドナルド:あなたはこの本で、「表現衝動に憑かれる」という美しいフレーズを使われていますね。そこには、シャーマニズムの伝統や、他の種類の伝統的で神聖な霊媒、トランス状態との関連性が提示されているのでしょうか。
カーディナル:私は、刺激的なアイデアが好きです。それは、どこからか“降りて”きて、何かに取り組まなければならないという感覚を呼び起こす。中世のキリスト教の言葉に置き換えれば、「自らを明け渡しゆだねること、あなたの魂を偉大な力に与えること」です。君が言及したようなことはすべて、文化人類学者の絶好の研究対象ですが、アウトサイダー・アート学にも属するものであることも、強調しておきたいところです。たとえば、多くの洞窟芸術は、アウトサイダー・アートのピュアな性質を兼ね備えています。私たちが知る限り、そこには規範や師となる者はなく、強要も一切ありません。この芸術は、無条件の喜びと解放、死ぬことすら思い留まらせ、生への執着を生み出すほどの、極めて独創的な記号システムと捉えることもできる。
マクドナルド:興味深いのは、メインストリームに位置する多くのアーティストが、さまざまな方法を用いて変性意識状態を人工的に誘発していることです。享楽のために依存してしまうのではなく、詩作や創作のための冷静な実験として幻覚剤を使用していたアンリ・ミショー2は、その格好の例ではないでしょうか。
いわゆるインサイダー・アートと、アウトサイダー・アートとの間で、これまで流動的な対話がなされてきました。デュビュッフェがどの程度、このような対話を念頭に置いて文章を書いていたのかが気になります。というのも、彼はあたかも自ら設定したアール・ブリュットの定義にそぐわないものすべてを頑なに排除しているようにも見て取れるからです。
カーディナル:その答えは、ロマン主義3とモダン主義4の時代にまで遡る必要がありますね。アーティストとしてのデュビュッフェは、ほかの数多くのアーティストとかかわっていましたが、とりわけ“マチエール5”に興味を持っていたようです。そして彼は、「これはもうやめて、次へ進もう」という判断を自分自身の創作にも下すことができ、すべての作品に番号をふり、ラベルをつけていました。そうした、彼自身に本来備わっていた自己統制的な性格も関係しているかもしれません。
また、彼はマーケットをアール・ブリュットにまつわる会話の一部にはしたくないと考えていたようですが、彼自身はマーケットを弄ぶことに長けていました。そして、作家としてのデュビュッフェは、誰も評価しようのない絵を描くという、いたずら者の感覚を持っていました。
マクドナルド:デュビュッフェは、自らの作家活動においても、それまでの閉塞的な美術の世界からの解放を求めて、新しい表現を模索し、葛藤していた。そして非常に厳格な一面も持っていた。精神的には、アウトサイダー・アーティストになりたかったのかもしれませんね。
アール・ブリュットよりも、より多くを含んだ
アウトサイダー・アート
マクドナルド:あなたの著書である『アウトサイダー・アート』は、デュビュッフェに比べると、より寛容で柔軟な立場を取っているようにも思います。
カーディナル:私はまず、人々にデュビュッフェを知ってもらいたかったのです。そして、彼の著作を要約するとともに、美術アカデミーを基盤とするアートの背景、つまり自発性を押し殺してしまうような背景に対する彼の攻撃についても書き記しました。私自身、このような彼の批判に共感していたからです。デュビュッフェは「批評家は不安定な地盤の上に立っている」と言い、私はその考えが好きでした。しかしながら、君が示唆してくれたように、彼にはなかった柔軟性も持たせるようにしました。今こうして自分自身の好みを疑いつつ、なぜこのアーティストをこの本に載せたのかを客観的に見ると、そこには自分自身の弱さがあることを認めざるを得ません。今なら本には残さないであろう箇所もあります。リサーチの中で見た資料に限定されてしまったことも事実です。たとえば、あるメッセージを受け取るために、ロシアへ行くことは叶いませんでした。しかし、大きな意味ではデュビュッフェが先に示したアール・ブリュットに、深みを与えることはできたと思います。彼の考えを英語にし、本のタイトルにふさわしいフレーズを探したという部分においても、私は彼の翻訳者だったと言えるでしょう。――アーティストではないアーティストとは。それはまさにパラドクスです。誰かに助けてもらったり、教育を受けたり、作品に用いるさまざまな色を表す言葉もほとんど知らないからこそ、素晴らしいと言えるアーティストとは。どうして人は描くことにこれほど熱中できるのか――私は持ちうるエネルギーのすべてをこの本に注ぎ込み、ロンドンのアートシーンを転覆させるのだ、という馬鹿げた妄想を抱いていました。残念ながら、それは叶いませんでしたが。
マクドナルド:果たして叶わなかったのでしょうか。歴史を振り返ってみて少々不思議に思うのは、アール・ブリュットという言葉を残したまま、アウトサイダー・アートという言葉は、アール・ブリュットを超えて成長したというところです。
カーディナル:フランスでは、現代においても多くのアーティストが自らをアール・ブリュットのカテゴリーに属していると自覚していて、そのことに何ら疑問も感じてはいないようです。フランス文化全体として、アール・ブリュットを称え、誰がアーティストであるのかが知られている。その傾向は、イギリスよりも顕著だと言えるでしょう。私は、これまでデュビュッフェと自分を混同しないように意識してきました。この題材には他にもアプローチがあることや、注視することで別の問題が浮かび上がるのだということを示すため、先ほど挙げたようなレオ・ナヴラティルやハンス・プリンツホルンといった先駆者がいることも伝える必要がありました。精神科医や精神療法家は、一般人とは全く異なる方法でアートを語るからです。
マクドナルド:つまり、アウトサイダー・アートにとって重要なのは、鑑賞方法だということですね。
カーディナル:そうです。たとえば、一枚の絵の鑑賞に5分以上を費やせることができたなら、自らを全く異なる状態へと導くことができます。アートとはそもそも、鑑賞者自身の内面に、深度と拡がりをもたらすものでもあるのです。そうして、人々が時間をかけた鑑賞ができるようになると、すぐさまアートが孕んでいる問題に気づくことができるのです。そして、多くの人が作品の値段、外的に付けられた価値などといったことを気にしなくなり、(ロンドンにある)ナショナル・ギャラリー06へと鑑賞にでかけるようになるでしょう。
マクドナルド:“アート鑑賞”とは何か。それも今、先生から伺ってみたいことの一つです。もう少し詳しく伺っていけたらと思います。
(第3回へ続きます)