日々コンスタントに縫い続け、1〜2年でひとつのシャツを仕上げていく。
それぞれの手で針を持ち替えながら、右へ、左へ。針を刺して、それぞれの方向へ腕をぴんと伸ばして糸を引く。
1991年から鹿児島県<しょうぶ学園>の「布の工房」に所属する前野勉さんは、「針一本で縫い続ける」として利用者の個性を活かしたテキスタイルの表現活動「nui project」のベテラン選手。28年間、刺繍の作品を作り続けています。
ここ数年は、2〜3年かけて1枚のシャツに刺繍をすることが多いという勉さん。
「利用者さんの中には、50センチ四方の布を一日で3枚くらい仕上げるかた、一日にひと針くらいしかやらないかた、いろいろいます。そうした中で、勉さんは、長い時間をかけて取り組むタイプ。日々コンスタントに縫っているのですが、よく“エア刺繍”をやっているんですよ」と「布の工房」の職員、壽浦直子さん。
「エア刺繍」とは、職員が名付けた勉さんの刺繍技法の名前です。勉さんの刺繍は、すでに布へ縫いつけてある糸の、かぎりなく上のほうを繰り返しすくっていくため、繊維が毛羽立ってもこもこになっている特徴があります。
勉さんの刺繍のやり方は、糸を縫い付けて針を引き上げるたび、針をもつ手を替えて、右へ左へ腕を伸ばしながら縫い進めていくことは先ほどもお伝えしましたが、その様子をじっと見ていると、すくう位置が上すぎて、布も糸もかすめていないことが多々ありました。それでも、勉さんは気にせず針を動かし続けます。たしかに、この動作は刺繍をしているようで、実際に刺繍はされていない「エア刺繍」です。
糸は職員がいろいろな色を小分けにして巻き直したものを、作業する机にまとめて用意しておきます。
「以前は、大島紬で使うような細い絹の糸を使っていましたが、2〜3年前くらいから毛糸に変わりました。多くの利用者さんは明るい色が好きですが、勉さんはそれほど色へのこだわりはないです。ただ、量を確保して、糸がたくさんあることで安心していたいみたいで、残りが少なくなると職員のところへ来て、早く新しいのを巻いてくれとアピールします。意外とせっかちで、頑固なんです(笑)」
自分のペースを崩さない、意見を曲げない。それができる環境だから今の作品が生まれた。
こんもりと盛り上がった勉さんの刺繍スタイルは、どのようにできあがっていったのでしょう。
「nui project」の発起人で、<しょうぶ学園>の統括副施設長、福森順子さんにうかがいました。
「始めた当初から、細くて柔らかめの糸が好きというのは変わらないのですが、最初の作品はもっと平坦だったんです。多分、自分がどのくらいまでやっていいかわからなかったのでしょうね。 “糸はここから取ってね”“こうやって糸をのばすんだよ”と教えても、勉さんは頑固なところがあるので、途中で糸を切ったり、違うところから糸を取ったりして、こんがらがってしまっていたんですね。最初はそれを注意していましたが、職員のほうが根負けして、そのままの状態で好きなように作業を続けてもらっていたんです。
こんがらがっても本人は継続してやっているし、針を刺さない“エア刺繍”も、自分自身で楽しんでやっているようにも見えたのでそのままにしていたんです。そしたら、いつの間にか刺繍が盛り上がって立体的になっていたという感じですね。私たちも驚きました。それからというもの、私たちがとやかく言うより、彼の好きなようにやっていたほうがいいものができるとわかって、彼のペースでやってもらうようになって、今の形になりました」
柔らかなオーガンジーの布に、糸のかたまりが無数に刺繍された作品は、2002年につくられました。
「このころは、以前、下請けでやっていた大島紬の絹糸が残っていたので、その糸を使っていました。紬の絹糸は細いのですが、勉さんはそれを針の先でつつくんです。すごく毛羽立って、その上をまた縫っていくから、よけい毛羽立って、ふわふわになって柔らかさがでてくるんです」と、福森さんは当時を振り返る。
「マイペースで頑固ですけど、刺繍に関しては、やらないという拒否はありませんでした。動きがスローなので、それほど進まないなぁと思って目を離していると、ちょっとした塊ができているので、作業自体は思ったよりも早いかもしれません。やるときはやっていて、“エア刺繍”をやっているときは、遊んでいるのかもしれないですね」
以前は、1枚のシャツを1年くらいかけて刺繍していましたが、最近は2〜3年縫い続けていることが多くなりました。動きが悪くなったり、手が止まったりしたら、職員は「終わりだな」と判断して違う布を渡してみて、勉さんがその布を受け取った時点で作品が完成となります。
枠をつかって刺繍をしていき、枠いっぱいに糸が盛り上がり、はめられなくなったら次へという作業を繰り返していくので、刺繍枠の跡が花の模様のように浮かび上がってきます。色とりどりの糸が球体になって整然と浮かび上がる様子も美しいのですが、裏を返して現れる、長く残された糸が束になって流れていく表現も、体の内側を覗き見た感じがしてどきっとします。
黒いシャツは、いつの間にか刺繍枠まで一緒に縫い込んでしまっていたので、そのままの状態で作品にしたそうです。
勉さんのことを聞いていくと、口を揃えていうのが「にこにこと温厚そうに見えるけど意外に頑固」、「マイペース」ということ。
「穏やかそうな感じですが、言うことは全然聞いてくれないんです」と壽浦さんは笑う。
「毎日、朝9時30分から工房の作業が始まるのですが、勉さんはいつでもマイペース。エプロンをしたり、トイレに行ったりをゆっくりやっていて、職員のところへ針とはさみを取りに来るのが、他のみんなはとっくに作業を始めている10時半ころ。そのたびに、“今このタイミング?”とみんなで笑っています」 頑固なまでにマイペースを貫きながらも、柔和な笑みを浮かべながら右へ左へ。勉さんは、ひと針、ひと針、刺して、糸をたぐる行為そのものを楽しみながら、刺繍を続けています。