今回の共演者
内山智昭
UCHIYAMA Chiaki(1959-2018)
1959年、長野県生まれ。粘土造形を始めたのは37歳の頃。重労働の仕事を転々と渡り歩いた後、障害者支援施設で暮らすようになってからのこと。幼少の頃の病気と投薬によって、知的障害と聴覚障害という重複障害があるが、手話を学ぶチャンスも、自己表現の手段も持てぬまま生きてきた。入所した施設で粘土造形の活動に出合った彼は、当初から独特の世界観をみせ、不安定な行動もしだいに収束。造形意欲は日ごとに増してゆき、5〜6年間に約300点の作品を制作するも、施設に入ってから学んだ手話で、「私はここにいたくない。家に帰りたい」と伝え、夢中だった制作を止めて退所。その後、働きながら自宅で暮らし、制作は全く行わなかったという。
この作品を見たとき、真っ先に思い浮かんだのはゴーギャンですね。 普通の画家とは違う絵を描こうって、野心満々でタヒチに行ったのに、フランスへ戻ってきても、ゴーギャンの絵はまったく売れなかった。それでもあきらめず、もう一度タヒチに行くんです。最初に行ったときは観光化されたところにしか立ち入れなくて、自分の思っているタヒチじゃなかった不満もあった。だから2回目のときは、もっと奥地へと入っていった。ひとりで森の中の家を借りて。
すると、何日か経ったある朝、家の前の切り株にひとつの像がおいてあったの。タヒチの人がつくったに違いないこの像を前にして、ゴーギャンは自分の芸術性に関するメッセージだと受け取るんですね。
「おまえがつくっているものは、所詮、フランス流に勝手にアレンジした作品じゃないか」
「どうだ、おまえは、こういうものがつくれるのか」
と、いうように。
それからゴーギャンは、これに似たタヒチ人の像を自分で作りはじめるんです。でも、家の前に置いてあった像の域までには、どうしても達しないことは自分でわかるんですね。
そんなとき、もうひとつの像が現れるんだ。また違う雰囲気のものが。
その像は、さらに複雑になっているとも思えるし、前のものよりも表情が少し和らいでいるとも思えるし、女性っぽい面も見えてくる。
このふたつの像がゴーギャンを悩ませるんですね。
誰が、なんの意図をもって、家の前に置いていくのか。
それをつくった人は、ゴーギャンの前には、絶対に現れないんですよ。そうして悩みながら創作に没頭しているうちに、ゴーギャンはマラリアにかかって寝込んでしまうんです。
現地の病院のベッドで高熱にうなされていると、誰かしらが、自分のおでこに冷たいものを当てて冷やしてくれている。なんだ気持ちいいなぁと、ぼーっとして目を開けると、その人はさっといなくなっちゃう。そして、またうつらうつらと眠りについて、誰かの気配がするのだけど、やっぱり気づくといなくなっちゃう。
見えたのは、逃げていった戸口からのぞく足の裏だけ。
そうして何日も寝込んでいるとき、
「最初の像はお前自身、よそ者であるゴーギャンの像。
そしてふたつめのものは、あなたを看護している私の像です」
という声が、夢かうつつか、聞こえてくるんです。
けれども、ゴーギャンを看病してくれたその女の子は、彼が回復してもついに現れなかった。ただただ、像が残されただけ。
森の中の家に戻ったゴーギャンは、このふたつの像から受けた印象で、自分が思うタヒチの絵を描き続けたんです。そうして無心に描いているうちに、「彼を受け入れていると同時に、拒否している」というアンビバレンスな印象をもったタヒチ人たちの絵がいっぱいできあがったのね。
像をつくった娘さんは看病をしてくれたり、いろいろとゴーギャンを見守っていたりしてくれたのだけど、自己紹介もしないし、あなたの世話をしているとも言わない。それがゴーギャンにとっては、受け入れているけど、拒否しているというように思えた。なんで、もっとこっちに来ないんだよという歯がゆい思いを受け取るんです。
でも、タヒチの人にとっては、拒否とか、受け入れるという考えも、別段あるわけじゃない。ただそれが、よそから来た人とのひとつの接触のしかたにすぎなかったの。
タヒチの人からみたら、ひとつめの像がゴーギャン。舌を出したりしてよくわからない存在。そして、ふたつ目が像をつくった娘さん。彼女はずっとゴーギャンを見守っていて、こういうのをつくって見てもらう関係にはなりたいけれども、それ以上のことはなにも望まない。
この娘さんは見たままをつくっただけだけど、それをゴーギャンはアンビバレンスと受け取り、「迎え入れているけど、拒否している関係」と名付けていったんだね。
それのアンビバレンスを描いたことで、タヒチのもっているエッセンスとして現れた絵がいっぱいできあがったの。
そのころには、ゴーギャンのなかでそれを商品にして売ってやろうという邪な心はひとつもなくなっていた。このことが、ゴーギャンがタヒチで感じたことをそのまま描いたきっかけとなった、という純粋芸術のお話しでした。
ちなみに『月とアンビバレンス』というタイトルは、ゴーギャンをモデルにしたサマセット・モームの小説『月と六ペンス』から拝借しちゃいました。
<<イッセー尾形の妄ソー芸術鑑賞術~その2>>
俳優、脚本家、演出家として、ひとり舞台で日々新たな世界を生み出すイッセーさんに、妄ソーを楽しく行うためのコツをうかがいました。
作品に接したことで、次の作品が生まれて、
みんながオリジナルになっていくのが理想。
アートの出どころはいっぱいあって、芸術家だとか、日曜画家とか、もちろん障害のある人も、みんな作品というものをつくる。でも、僕が妄想をするときは、誰がつくったかを抜いて、作品だけをみる。そうするといろいろな物語ができて、作品から違う作品が生まれていくこともある。作品に接したことで、「新たなものを作りたくなる」ことが、健康な作品の育ち方だと思うんですね。
僕の理想は、この妄想を聞いて、小さなアニメーションになってもいいし、絵本をつくってもいいし、指人形をつくってもいいし、映画になってもいい。「オリジナルは誰?」ではなくて、みんながオリジナルになっていく。そうやって作品というのは、次々と生ませあっていくのが理想というかね。
小説でも、映画でも、おもしろい芸術ってそうだと思うのね。つくっている人の手が見えてくるのも愛おしい。
さっきの像もそう。手触りを感じられる。そうやって、生身の人がかかわっているっていうのが、物語をひきおこす要素かもしれませんね。