固定概念へのいくつもの疑問を投げかけてくるように
鉛筆で描かれたモノクロのドローイングを眺めている。初期のアドルフ・ヴェルフリ01の鉛筆画には楽譜を思わせるような線符、言葉や人間が描かれており、作曲家という署名まで入っている。色鉛筆で描かれた作品では音符が規則的に並びリズミカルに記されていて、この作品では音楽が作曲されているのかもしれない。びっしりと編まれている言葉は、叙情詩として綴られているのかもしれない。画面いっぱいに広がる表計算のような数字の羅列は、コンピューター・プログラミングの数式を思わせるような密度の高い情報量にも思えてくる。もしかしたら演奏が出来るかもしれない、詩を朗読出来るかもしれない、コンピューター言語として何かを起動出来るかもしれない。様々な可能性を想像することが出来る媒体のようにも思えてくる。
さらに彼が書いた膨大な物語を読み進んでいく。彼の創造物に関与していくことは、私たちが想像をすることによって初めて作品として成り立つように思えてくる。それは未完成や何かが欠けている、という意味ではなく、私たちが彼の作品に寄り添い、協働のような形で作品と付き合うことで、「生きた芸術」のような感触が生まれる感じがする。そこでまずは、私たちの固定概念を取り払うことが大切なように思えてくる。つまり、たとえばアウトサイダー・アート02/アール・ブリュット03というフレームを破棄して、極めて強いオリジナリティを発見していくこと。そうすることによって、彼の様々なアプローチが作品の中で複雑に絡み合い、真実はひとつではなく無数にあることを私たちに知らせてくれるような気がする。現代社会を生きていて常に考えてしまっている既成の認識に対して、疑問をいくつも投げかけてくるように。
スコアから感じる余白、そして内側へ繋がる穴
ここである音楽を再生してみる。ブリュッセルにある音楽レーベル「Sub Rosa」からリリースされているアルバムで、ヴェルフリの作品をベルギーの作曲家でヴァイオリニストのボドゥアン・ドゥ・ジャエル(Baudouin De Jaer)がスコア(楽譜)として解読し、演奏したレコーディング作品を聴いている。ここに収録されているヴァイオリンの音色は、あるときは調性のとれたメロディーが、またはヴァイオリンとは思えないようなキーンと耳に突き刺さるような高音、動物や虫の鳴き声のようなリズムを持った打楽器的な音楽に聴こえてくる。私はいま「音楽を聴いている」と認識しているが、それはヴェルフリのスコアを元に演奏されたものということを知っているが故に「音楽を聴いている」という思考の耳になっている。しかし、もしかするとこの事前の情報がなければ、音楽ではなくただ単純に「音」を聴いている、と感じるかもしれない。音楽と音の間を行ったり来たりするように。
ジャエルはヴェルフリの作品を繙いていく。スコアの中に潜んでいるルール、仕組み、指示を読み取って、自分の楽器に置き換えて絵画から音楽に変換していく。この行為はヴェルフリの作品に近寄り、新しい想像をすることに近い。ヴェルフリの作品と協働することによって、現実世界に演奏行為が行われ音楽になる。人間が「音楽」と感じるのは、西洋的な考え方に近しく、音のそれぞれに調和があって、ズレがなく整理された音楽、という認識が大多数だと思う。このアルバムを聴いていると、人間が「音楽」と決めている、いわゆる「音楽」にならなくたっていい、という気持ちになる。ただ「音」がそこにあればよく、心地よく不揃いに奏でられる音。いわゆる音楽のスコアはそこに書かれた音や指示が作品構成のすべてであり、絶対である。必ず作曲家が描いた世界を音で 現前させなければいけない。
しかし、ヴェルフリが書いたスコアからの音にはどこか「余白」を感じる。隙間がないほどたくさんのモチーフが描かれている作品のはずなのに、奏でられる音には隙間が生じている。この「余白」はなんだろうか。ヴェルフリの作品にはたくさんの人の顔、目がある。鋭い眼差しのように感じるが、実は黒い穴のように目が描かれている。これは目ではなく、作品の内側へと繋がる「穴」ではないだろうか。ヴェルフリの内側へ通じる穴。私たちと作品を繋ぐインターフェイスと言っても良いのかもしれない。その穴が「余白」として、そのまま音に表れていると感じる。楽譜から音がとても自然に立ち上がっていることがわかる。生であり、事実そのまま、そして野性的でもある音楽。それは音楽でもあり、物語でもあり、叙情詩でもあり、絵画でもある。ヴェルフリの作品すべてに通ずることに思える。
私たちに見えている世界はひとつではない、ということ
大量に生み出された作品のことに触れると、ある時間を感じる。ヴェルフリの長年続いた作品創作の時間である。それは個人と社会、自分と他者、日常とその対極にあるもの、常にアウトプットすることで戦ってきたひとりの人間の歴史でもある。非常に多義的な世界を感じる。日常において私たちに見えている世界はひとつではなく、見えていない別の世界が存在する可能性があるのではないか、ということを気づかせてくれる。私はヴェルフリの極めて個人的な神話に触れながらこのようなことを思った。