近年、心理学・脳科学の分野ではよく耳にすることですが、子どもにエゴ(自我)が芽生えるのは4歳からなんだそうです。エゴというのは理性や規律のことを言いますが、大人になるにつれて脳の中にもだんだんと秩序が生まれてくる。その始まりが4歳ごろ。それまではというと、脳内のあらゆるパーツが柔軟で、パーツ同士で話がしやすい状態にあると言われています。これは、子どもの絵の面白さが脳科学的にも説明がつくようになった、ということでもあるのではないでしょうか。レクチャーの1回目は、「子ども」という視点で、アートの歴史を眺めてみたいと思います。
子どもや部族のアートを同列に捉えた「青騎士」の思想
遡ること100年ほど前。ドイツ・ミュンヘンにて立ち上がった「青騎士」という表現主義の画家たちによる芸術集団は、子どもの絵画に着目していました。青騎士の中心人物だったのは、ワシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクなど。彼らは、1912年に年刊芸術ジャーナル誌『青騎士』を出版し、ミュンヘンで展覧会を開きました。そこでは、自分たちの作品だけでなく、部族芸術や農民芸術、フォークアート、そして子どものアートが混ざり合って展示されていました。
この時代、第一次世界大戦の前後は、西洋のアートシーンは可能性にあふれたかなりカオスティックな時代でした。パリでは、バブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって、幾何学的に描く手法「キュビスム」が起こり、イタリアでは「未来派」、スイスでは「ダダイズム」といった芸術運動が盛んになり、「アヴァンギャルド」(前衛芸術)の時代へと向かっていく。こうした芸術運動の根底には、大きな壁となって立ちはだかるアカデミズムへの抵抗という意味合いが多分にありました。西洋美術界とは美術大学機関(アカデミズム)であり、今以上に保守的かつ権威的で「正当な美術教育を受けた者しかアーティストと認めない」と、厳格に守られていた時代です。日本の美術大学でも西洋の流れを受けて、目に映るそのままを具象的に描くデッサン、自然主義的な手法こそがもっとも優れているとされてきました。残念ながら、日本でもその流れは未だに根強いのですが……。
こうした背景を青騎士と重ね合わせてみると、青騎士の芸術運動がいかにカウンターカルチャー的な思想を掲げていたかがわかりますよね。単に美しいものを描くことがアーティストなのではない。メインストリームであるアカデミズムを疑問視し、「芸術を通して精神的な真理を表現するのだ」と、『青騎士』の誌面で訴えました。そしてそれは、単にアカデミズムに対する反動だけではなく、同時に近代化によって本来の人間性や精神性を失いつつあった社会全体への批判でもあったのです。
子どもや部族民など、美術教育を受けていない人々(アウトサイダー)のプリミティブでイノセント(無邪気)な表現を評価し、アカデミズムと同列に取り上げたというこの動きは、この後の1945年、フランスで精神障害者等による芸術をアール・ブリュット(生の芸術)として見出したジャン・デュビュッフェよりもずっと早かった。青騎士に途中から参加するようになったパウル・クレーもまた、子どもや障害のある人々が描く絵に惹きつけられた一人でしたが、理性が介さない“あわい”の世界に憧れ、自らも子どものような無邪気なビジョンを絵に表していきます。「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、目に見えないものを見えるようにするものである」という、クレーの有名な言葉もありますが、青騎士の作家の多くが、理性をどう扱うかについて考えていた。カンディンスキーも、精神世界に関心が強く、ヨガを始めたりベジタリアンになったりと身体的なアプローチを試みていたようです。
子どもの詩と絵の雑誌『きりん』を手がけた「具体」の芸術家たち
では、日本にこうした動きはあったのでしょうか。青騎士と同時代ではありませんが、そこから数十年が経った1954年から18年間、第二次世界大戦後から高度経済成長期にかけて、吉原治良を中心に関西で活動した前衛美術集団「具体美術協会」が、おそらく日本において子どものアートに着目した最初でした。
吉原の「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」という指導のもとに、絵画をはじめ、野外や舞台などで実験的にアクションやハプニングを起こし、身体性や強い精神性を表す作品を数々発表します。その根底には、戦争という全体主義から解放されて、自由な新しい未来に向かうエネルギーがあり、“遊び”からアートを作り、鑑賞者も“遊ぶ”べきだという考えかたがありました。そして、具体のメンバーの一人である浮田要三が児童詩誌『きりん』の編集長だったことで、誌面にも次第にモダンアートの要素が組み込まれていくようになります。子どもが描いた抽象画を取り上げ、子ども向けの美術記事を嶋本昭三が担当。具体のメンバーの多くは、幼稚園や小学校などでアルバイト的に絵画指導をしていたそうで、誌面でも度々「絵に上手い下手はない。人に説明できるような○○らしい絵はダメだ」と、子どもたちに向けてモダンアートを推奨し、親に向けた子育てのページでは、「遊びを抑圧して潰してはいけない。大人の美術の概念にはめないで」と促しました。1956年に具体が兵庫の芦屋公園で開催した野外の展覧会「野外具体美術展」において吉原治良が発表した、芝生の上に設置した大きなボードに大人も子どもも自由に落書きしてもよいという作品「自由に描いてください」も、とても象徴的です。ちなみに、具体の創設メンバーである嶋本昭三は、のちに日本障害者芸術文化協会の会長も務めていますね。
晩年に向かうにつれ、子どもの感性を取り戻した芸術家たち
こうして、冒頭でも話した4歳までの子どもの感性、というのはメインストリームにこそ取り上げられないにせよ、芸術家たちの間ではいつの時代も“求めても取り戻せない”憧れでした。けれども、これを老年期に取り戻せたアーティストもいるのではないか、という見解もあります。たとえば、晩年の画家、アンリ・マティス。1941年にがんの手術をしたあと車椅子の生活になり、さらにはベッドから起き上がれなくなっても作品を作り続けた作家ですが、こうして体が不自由になった70〜80歳にして発表した新しい切り絵シリーズは、マティスの傑作として評価を受けました。
印象派のクロード・モネも、晩年白内障を患います。外の風景がよく見えなくなって、同じ風景を描いているのだけど、どんどんぼやけて抽象画に近づいていく。この晩年の作品は、パリのオランジェリー美術館の常設展示で観られますが、光と霧が立ち込めている中に、かすかに池と蓮が見えるような作品でした。
アメリカの抽象画家、ウィリアム・デ・クーニングも、80年代の終わりにアルツハイマー型認知症になりました。認知症の初期の頃は、割と重たい絵が多いのですが、90年代に入ると色がどんどん軽くなっていきます。それまでは数カ月かけて描いていたのが、どんどんペースが上がり、完全に描けなくなる91年まで描き続けたと言われています。
そしてこの話で忘れてはならないのがパブロ・ピカソですね。1965年から、亡くなる1972年までの晩年期に注目してみます。この頃になると、もうピカソはすっかり世界のスーパースターだったのですが、10年間パートナーだったフランソワ・ジロと別れたことで、ジロに暴露本を書かれてしまいます。ずっと守られてきたスターの日常が晒され、プライドはズタズタになり、70代に入ると体の調子も悪くなってきた。そんな状態から、あるとき新しい絵をどんどん描き始めます。ビビットでエネルギッシュ、それまでのコントロールされてきたピカソ像が完全に飛んでしまうような絵でした。70年代、フランスのアヴィニヨンで、この新しい作品群をピカソ本人がキュレーションする展覧会を開きました。ピカソというと豪奢なフレームがイメージでしたが、ここでは額にも入れずワイルドに展示した素朴な展覧会だったので多くの来場者が「ピカソももう終わりだ」とがっかりした反面、一部の批評家たちは、最高傑作だと賞賛しました。ピカソ自身、この頃にはそうした批評すらどうでもよくなっていて、子どものようなクリエイティビティを取り戻した最後の10年、もっとも多くの作品を残しました。今となっては、このピカソの晩年の作品は、具象性を持ちながらも表現主義的で、のちの80年代に起こるニューペインティングの先駆的表現だったと再評価されてきています。
体のあちこちが不自由になっても、体に染み込んでいる画家としてのスキルと、理性や論理的なマインドから解き放たれた軽やかさ。老年期にこれが生かせた作家というのは、とても興味深いですよね。
何かが降りてきて描かされるような、イノセント(無邪気)な瞬間。どんな時代にも芸術家たちの多くは、この子どものような感性を羨望の眼差しで見ていたのではないでしょうか。
次回のレクチャーは、もう一つの世界を生み出す力……「ビジョン」をテーマにお話したいと思います。お楽しみに!
[参考文献]
『Emile : OR, ON EDUCATION』(1762)Jean-Jacques Rousseau
『The Blaue Reiter Almanac』(2005)MFA PUBLICATIONS
『Gutai : Splendid Playground』(2013)Guggenheim Museum
『Pablo Picasso /Late Picasso ~Paintings,sculpture,drawings,prints,1953-1972』(1988)Tate Publishing
『Consciousness and the Brain』(2014)Stanislas Dehaene