アートと対極にある? 図工の授業が抱える問題
郷泰典(以下、郷):僕は東京都現代美術館で、人々とアートを結びつける橋渡し的な役割を担う「教育普及」を担当しています。現代美術のいいところは、作家がまだ生きているところ。そこで、アーティストと学校に出かけて子どもたちに授業を行い、作家の表現や考え方に触れてもらうプログラムなども展開しています。
木村泰子(以下、木村):郷さんは「アート」をどう解釈されているのですか?
郷:アートは、日常の視点を変えることだと思っています。同じものを眺めていても、見方を変えると、いままで気づけなかったものに気づいたりする。映画『みんなの学校』を見て、大阪市立大空小学校(以下、大空)の教育方針とアートの力には、共通するところがあるんじゃないかと思いました。
木村:違うところから物事を眺めると、同じものを見ていても全く違うものに見えますよね。
郷:視点を変えることができれば生き方に幅が出ます。アートを媒介に、そういうことに気づいてもらえたらと思っています。美術館での体験だけでなく、アートって身の回りにも溢れていますから。そもそも美術を紐解いていくと、個々の作品から離れて、考え方やそのプロセス、あるいは思考そのものにたどり着きます。僕はそれこそがアートだと捉えています。
木村:私ね、実は図工の授業が好きじゃないんです。図工の授業、ご覧になったことあります?
郷:僕たち学芸員が出張授業を行う場合、図工の時間に当てられることが多いですね。
木村:小学校の6年間というのは、幼児から思春期に差し掛かる、特別な感性を備えている期間。この間の図工の授業がどうあったかでその子の育ちが変わると思っています。私が図工を好きではないのは、自分が小学校高学年だったときの担任が影響しています。図工の時間、自分の担任に「どうせ下手なんやから、なんぼ描いても変わらへん」って言われたんですよ。その「下手」という言葉が強烈に残って、以来「私は絵が下手やから」って一切描かなくなりました。教員の指導の言葉って一瞬で暴力に変わるんですね。いまにして思えばとても不幸せな先生で、反面教師として自分の学びになったのは事実ですが。
郷:出張授業で出かける小学校で子どもたちの作品を見せてもらうと、中にはものすごく面白い絵を描く子がいるんです。僕たちはその子に会えることを楽しみに授業に向かうのですが、そういう子は大抵、学校や家で何かしらの問題を抱えている子なんですね。僕たちの前でその子がまた何かやらかすんじゃないかって、先生たちは彼らを扱いあぐねている。他の子と違う感性を備えているのに、学校の中では問題視されてしまっているんです。
木村:まさに、いまおっしゃったことが教育現場の課題なんです。クラスの平静、平穏を保ちたいから、面白い子をどんどん排除しようとする。平静って、嫌な表現をすると「普通」の子を育てたいってことですよね。でも、アートと「普通」って真逆のものですよ。
郷:だから出張授業では、「足を使って絵を描くアーティストもいるんだよ」とか、表現活動はいろいろあるということを子どもたちに伝えています。そういうことを知ると子どもたちも、「あ、それでいいんだ」って興味を持ってくれる。先生がそれをどう思っているかわかりませんが、僕らやアーティストのような第三者の立場の人間が学校の中をかき回してもいいかなと思うんです。
木村:そもそも、人が描きたい、つくりたいと思ったことに対して評価をつけることに昔から疑問を抱いていました。図工の時間って、みんな一緒の作品をつくるんですよ。みんな一緒の筆づかい、みんな一緒の濁りのない色、そうすると高い評価がつくんです。中には、「そんなんイヤや、綺麗なんて思わへんわ」という子がいて、「そうか、感性は人それぞれね」でいいはずなのに、彼らには高い評価がつかない。
郷:東京都には図工を専門に教える先生(図工専科)がいますが、そういう先生たちとやりとりをしていると、学校の中でも少しずつ意識は変わってきているなと実感します。問題意識を持っている先生たちは、「図工は評価できないものなのに」と葛藤していますから。
木村:私の知る中では図工を研究している教員もいますが、十中八九、彼らの研究授業にはマニュアルがある。スーツケースの中に子どもたちの作品が収められているんですけれどね、そのスーツケースに収まらないような、長い棒や大きな風船のような作品は、ポキっと折ったりプシュッと空気を抜いたりして、無理にスーツケースに入れてしまう。
だから大空の同僚と、「学校教育で図工の授業や評価をやめてしまったら、子どもはもっと育つだろうね」って言い合っていました。だって1年生のときから「これはダメ」「これはこうしなさい」って言われ続けたら、子どもはそれしかないって思ってしまう。そうしたら、「普通」という名のスーツケースに自ら入っていきますよ。
郷:僕たちが行うアート・プログラムでは、評価というものは一切しないんです。僕たちが学校で授業を行うと、いつもは発言しない子が突然発言するとか、そういうことがあるんですね。先生には見せない顔を見せてくれるんです。だから、先生たちにはその授業をきちんと見てほしいってお願いしています。授業がどう進行するかをチェックするのではなくて、いま、ここでこの子たちに何が起きているのか、普段は表に表れない子どもたちの素質や才能を発見してもらいたい。そんな気持ちでアート・プログラムに携わっています。
木村:普段発言しない子が、郷さんたちの授業では発言する。その違いはなんだと思われますか?
郷:なんでしょう。僕らがいつも出会っている人間ではないからでしょうか。
木村:私はね、郷さんの授業には「正解」がないからだと思います。先生たちの授業には正解があって、子どもたちを正解へ導くことが授業の目的。そのスキルを持った先生が「いい先生」なんです。だから子どもたちはいつも正解を言わなくてはいけないというプレッシャーにさらされている。でも、郷さんたちの授業では授業者が正解を持たないじゃないですか。子どもたちが何を発言しても「あなたのその意見はオッケーよ」って、どんな発言も排除するのではなく丸ごと受け入れる。だから子どもたちも安心して発言できるんです。
郷:いまのお話、すごく共感します。先生たちは研究授業を行う際に学習指導案をつくりますよね? 先生と研究授業を行う際、事前にその内容をチェックしてほしいって渡されるのですけれど、指導案の中には授業中の子どもたちの想定発言まで記載されているんです。「そんなの予想できないのに、なんでそんなことが書いてあるんだろう」と不思議に思っていました。結局、授業には道筋があって、子どもの発言も全部想定されていて、導かれる解があらかじめ用意されている。そのシナリオに沿った授業がいい授業なんでしょうけれど、でも僕たちはそんな授業はできないですから。
木村:だから私たちも大空の1年目に指導案をすべて断捨離しました。みんな夜な夜な研究授業のために授業案をつくるんですけれどね、私、その意味がわからなくて。「なんで指導案なんてつくっているの」と聞くと「研究授業のためです」。「じゃあなんのために研究授業があるの?」、「自分たちの授業力を上げるためです」。「授業力をつけるのはなんのため?」と聞くと、そこで口ごもってしまう。授業力とは結局、いい教師になるため。主語が先生なんです。「ちゃうやろ、授業力をつける目的は、子どもを学びに向かわせるためやろ」って言いました。自分たちが「いい教師」になるために行う授業はやめたほうがいい、って。そうやって無駄なものを断捨離したら、先生たちもなんのために授業があるのか、自分たちで考えるようになったんです。
授業の目的は、すべての子どもがその子らしく、幸せになるために学びに向き合うこと。じゃあ、それを叶えるためにどんな授業をすればいいのかって、子どもを主語にした、シナリオのない授業を試行錯誤するようになったんです。そうやって視点を変える中で生まれる新たなジレンマが、評価ですよね。できる・できないという、目に見える点数だけで評価していいんだろうかって。図工はその最たるものです。
郷:図工に関しても少しずつ変わってきているとは感じます。たとえば図工の発表会では、これまで先生がつくってきた校内展覧会を子どもたち自身が手がけるようになった学校も。できた作品だけで評価するのではなく、そのつくり上げるプロセスも含めて判断するという方向にシフトしてきています。
木村:そうやって先生たちが学んでおられる学校は変わっていくでしょうね。
郷:僕たちが授業に行くのは、先生たちを変えたいからという気持ちがどこかにありますね。先生たちの視点が変われば、授業も自ずと変わりますから。
大空小学校を変えた、「正解」のない授業
木村:私たちもね、見えない学力が大切だと気づいていながら、どこかで自分の正解に引き込もうとしていたんです。これは体裁のいい洗脳だなって気がついて正解のない授業の取り組みを始めました。それが、「全校道徳」。子どもたち、全職員、保護者、地域住民みんなが月曜朝に集まって、ひとつのお題をもとにそれぞれが自分の言葉で考えを伝え合うんです。
郷:映画の冒頭で、「大空小学校は誰がつくりますか」という問いかけを行っていた授業ですね。
木村:これが大空をものすごく変えたんです。子どもって、どの子も自分の言葉を持っていてそれを口にすることができるんですよ。大空の子が特別で自分の言葉で語れるわけではなく、大空にはそれを言える空気があるというだけ。子どもは、「言ったらあかん」という空気を読むから口にしないんです。
郷:大人が知らず知らずのうちにそういう空気を生み出しているのかもしれませんね。
木村:「全校道徳」の生みの親は、マアちゃん・ユウちゃんという重度の障害のある双子の兄弟なんですよ。彼らが入学してきた頃、私たちも悩んだんです。マアちゃんやユウちゃんが教室の中にいて、彼らは何を学べるんだろうって。違う部屋で一から教えた方がいいんじゃないかって。そこで、兄弟のお母さんに、みんなの中にいてもらっていいと思う?って聞いたんです。そうしたらそのお母さんがね、「算数の時間、うちの子がここにいて何を学べるんだろうって先生がたは心配している。それほどうちの子にとって失礼なことはない。それは先生たちの自己満足のお節介や」って言うんですよ。「うちの子どもには算数なんてどうでもいい。みんなはどんなときに笑うんだろう、怒るんだろう。みんなはどうやって生きているんだろう、と親と離れて社会に出たときに必要なことを、周りの子どもの表情や言葉から吸収しているんです。それを分断して、一体何を教えるんですか」って。この言葉が大空の礎を築きました。いま求められているものはもっと違うものにある、それで始めたのが「全校道徳」です。
郷:公立の大空ができるのだから、同じように独自の取り組みを始める学校がもっとできてもいいのにって思うんですけれどね。
木村:公立学校の目的って、憲法で保障されている子どもの学びの権利、つまり「すべての子どもが学校の中で子ども同士、学び合う」、それを守ることだけなんです。「みんなの学校」は、一人も漏れることなくすべての子どもが地域の公立学校で学ぶ事実をつくるということ。だから「みんなの学校」は大空の代名詞ではなく、全国の公立学校の代名詞なんですよ。
郷:映画を見て大空を特別視してしまうのかな。
木村:子ども同士の営みの中で生まれるものを、どう学びに変えるか。それが教員の仕事ですから、教えのプロになったらダメ。さらにいうなら、教員は「学び」のプロフェッショナルであってほしいですね。
郷:この場合の学びとは、「教員自身も学び続ける」ということですね。実際、僕も出張授業では子どもたちと触れることで、彼らからたくさんのことを学んでいます。結局、学びってリアルに経験することでしかないんだなと実感しますね。
木村:自分自身で映画を見てね、それ以前の傲慢な教員だった自分を振り返ると、いちばん身についたのは「学ぶ」力だったんです。どんな状況でも批判することは簡単ですよ。でも、いいとか悪いとかあそこは特別だからとか、そういう見方をするのではなくて、この事実から自分は何を学べるのかというように視点を変えると、世の中の営みが何ひとつ排除されないんですね。自分が嫌だなと思うものを「こんなのあかん、嫌だ」と思っても、それは「排除」でしかない。でも、「こうならないために自分はこうすればいいんだ。ここからこれを学ぶことができた」、その学びの姿勢はポジティブでしょう?
郷:そう思える大人が増えたら、世の中に大空のような小学校がもっと増えて、地域社会も変わっていきそうですね。
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