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(写真について)〈唐人町寺子屋〉にて。

(カテゴリー)インタビュー

福祉施設と学習塾、福岡から発信する「もうひとつの居場所」

クレジット

[文]  倉石綾子

[写真]  植本一子

読了まで約14分

(更新日)2018年11月07日

(この記事について)

家庭でもない、学校でもない。けれど、自分が自分らしくいられ、社会とつながる第三の場所。福岡を拠点に、そんな居場所づくりを行なっている〈工房まる〉の樋口龍二さん、〈宅老所よりあい〉の村瀬孝生さん、〈唐人町寺子屋〉の鳥羽和久さん。障害のある人、「ぼけ」を抱えたお年寄り、行き場をなくした子どもたち、それぞれに「生」と向き合う3人が考える、地域の居場所とその可能性とは。

本文

左から、NPO法人まる・代表理事の樋口龍二さん、第二宅老所よりあい・所長の村瀬孝生さん、唐人町寺子屋・塾長の鳥羽和久さん。

三者三様の視点で考える、心地いい「居場所」

樋口龍二(以下、樋口):僕は〈工房まる〉という福祉作業所に関わりながら、障害のある人たちのアートを仕事にするエイブルアート・カンパニーを設立するなど、彼らの表現活動を社会にアウトプットする環境づくりを行っています。いまから21年前、無認可の小さな作業所で趣味のギターを弾いたことをきっかけにその作業所に就職することになったのですが、そこで働いてみてわかったことは、彼らに障害があるのではなく、社会と彼らの間に障害が横たわっているということでした。

村瀬孝生(以下、村瀬):僕の場合は23歳の時に特老(特別養護老人ホーム)に就職しました。認知症と呼ばれる高齢者に対してはいまも昔も否定的な固定観念がありますけれど、そこで働くようになって感じたのは、ぼけにはぼけの世界があるということでした。そして、それは無理に寄り添おうとしたり否定したりするものではなく、人の有り様としてただそこに“ある”ものなんだって。世間は、認知症と呼ばれるお年寄りは知能や判断力が低下して、だから施設に入れざるを得ないと思っている。でも実は、それぞれみんなすごく魅力的で、人間的なんです。ぼけって、み嫌われる世界ではないんですよね。

樋口:そうそう。施設という場所は、彼らと社会を隔てている場所でもあるわけです。個人的には隔てるような場所はなくした方がいいと思いつつも、そういうわけにはいかない。だとしたら、ただ仕事をしたり報酬を得たりというだけでなく、個々のつながりや社会との関わりが生まれるような、そういう魅力的な居場所作りを目指したいと思っています。障害のある人も施設内だけでは幸せに生きられない。一歩外に踏み出したとき、でかける場所があるとか、出かけるときに誘える知り合いがいるとか、彼らの表現や欲求を満たすものを作っていきたい。そういう気持ちが僕たちの活動の根っこにありますね。

村瀬:特老の世界も同じですね。お年寄り自身、他人の世話にはなりたくないという本質的な願いを持っています。なのに「介護できない」という家族や社会の事情で入居が決められ、結果的に社会から隔絶されてしまう。さらに、過剰な健康思想の高まりの中で、ますます老いの居場所がなくなっていると感じます。「人知れず地域からお年寄りが消えている」、そんな状況に陥っているんですよ。ぼけと呼ばれるお年寄りから学びや発見はたくさんある。だから、お年寄りが排除されない、孤立しない居場所が必要だと感じます。

〈宅老所よりあい〉。1991年、社会から孤立していた当時92歳の女性のため、福岡市中央区に開所した。1995年には〈第二宅老所よりあい〉を開設。両施設とも民家を改装し、現在は十数名ほどの利用者が通う。そして2015年、26名の利用者と特別養護老人ホーム〈よりあいの森〉をスタート。書籍『へろへろ−−雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』(鹿子裕文著、ナナロク社、2015年)の舞台にもなった。

鳥羽和久(以下、鳥羽): 僕が関わっているのは小学生から高校生までの子どもたち。大学院時代、学費を稼ぐために塾を始めて、以来、ずっと塾を運営しています。そうやって17年もやっていると、本当に勉強に向いていない、むしろ勉強に恐怖感さえ抱いている、そういう子どももいるんだってわかってきます。また、社会が求める、受験勉強をして成績を伸ばし、大学に進学して良い就職口を見つけるというような、既定のレールから外れてしまう子たちもいます。そういう子たちに対して何か仕掛けをつくってあげられないか、そんな思いから7年前、学習塾の中に単位制高校を作りました。
塾に来れば高校卒業の資格が取れるシステムですが、その子たちは塾という狭い空間の中で何人かの同級生としか触れ合えない。それでは刺激が少なすぎるということで、アーティストの坂口恭平さんや写真家の石川直樹さん、哲学者の中島義道さんらを招いてお話しいただく機会を設けるなど、子どもたちが既製品ではない刺激に出合えるようなイベントを開催するようになりました。彼らが人生をもっと楽に生きられるようなヒントを提供できればと思っています。ところで、お二人のお話を伺っていて、樋口さんの「障害というものは、障害のある人自身にあるのではなく、僕たちや社会と彼らの間にあるもの」ということばに完全に共感しました。

村瀬:社会の側は、自分たちが一方的に作ってしまっている壁に対して、あまりにも無関心ですよね。

樋口:社会は、障害のある人を健常者に近づけようとするんですよね。認知症のある高齢者や不登校の子どもたちに対しても同じだと思うんですが。僕はそこにすごく違和感を感じる。鳥羽さんの話で思ったのは、現代には道草や放課後が少ないのかな。自分の子どもの時を振り返ってみると、道草や放課後で経験したワクワクやドキドキから得られたことって、すごく大きかったんですよ。いまの学校は安心や安全を与えてくれるけれど、あの年ごろにいちばん必要な、想像力や感性を磨く機会を排除してしまっている。だからやりたいことに近づいていけない。それはとてももったいないことだと思います。

村瀬:「道草がない」って、老人介護の現場と全く同じ。介護の現場では意味のあることしか求められないんです。意味のあること、つまり当事者に提供されるサービスのエビデンスということですね。このサービスにはこんな影響があって、こんな効果を生みますよ、そういうことばかり求められる。でも、人間と人間の関わり合いには、「意味」として成立しない行為もたくさんあるんです。例えば、お年寄りの中の、その人が生きてきた歴史や実の子どもですら知らない彼らのストーリー。そこにピントを合わせることが、介護の「道草」だったりします。でも、それらを「無意味」だとしてごっそりと省いてしまうから、息苦しさや閉塞感が生まれてしまう。

樋口:そういう閉塞感に対してそれぞれのいいところを伸ばそうというのが僕たちの活動の源。その「道草」が、僕たちとってのアートや表現活動、モノづくりなのかな。

鳥羽:教育の現場でも、道草に例えられるような、意味のないことはやるなという風潮が強いです。道草をしようと思ったら、子どもたちそれぞれが強い意志を持ってそれを選び取らなくてはいけないんですね。

〈宅老所よりあい〉から徒歩数分の距離にある〈唐人町寺子屋〉。1階のショップ「とらきつね」では文具や本、食品などを販売し、「とらきつね」の奥は自習室となっている。おもに授業は2階と7階の教室を利用。小学部、中学部、高等部の受験クラスと、日本航空高等学校の通信制過程を受講できる。


例えば「道草」や「放課後」。一見、意味のないものに価値がある

樋口:結局、僕たちは世の中からすると「サービス提供者」なんですよ。その考え方に侵されたらまずいと思って日々、戦っていますが(笑)、「サービス提供者」ってそれを遂行して給料をもらうということでしょ? そういうことじゃない。

鳥羽:「意味があることを提供してくれるんでしょ?」と迫られるってことですからね。

村瀬:介護の世界でいえば、介護保険でプラン化されたものしかやらないということです。その矛盾に、現場に携わる人たちは気づいている。お年寄りとどれだけ一緒に、真剣に遊べるか、それも生活や人生においてとても大切なことだけど、現場はお役所的な業務に追い詰められて遊ぶ余裕をなくし、プラン化された「サービス」に追われている。

鳥羽:「遊び」といえば、この前、ある小学生のお母さんに、「小学生のうちはたくさん遊ばせておいた方がいいですよね?」って質問されたんです。あ、これはまずいと思って、思わず口にしてしまいました。「お母さんはいま『遊び』っておっしゃいましたけど、お母さんのいう遊びは遊びじゃないです」、って。遊ばせておけば情操面やら何やらで何かいいことがあるだろうという親の企てや目論見がある時点で、それはもう子どもにとっては遊びじゃない。全てが誰かの企てになってしまい、普通の、純粋な遊びというものが難しいというのは、教育だけでなくあらゆる現場に通じる現象かもしれません。

村瀬:介護の現場にも時々、小学生が社会科見学に訪れます。そういう時は初めに先生たちがいらして、施設の視察やリサーチをするんです。お年寄りは何が好きか、どう過ごすのか。その内容を持ち帰り、社会科見学になるようなプログラムを組んでそれを後日、実行しに来るわけです。ただ、先生のプランをそのまま実行すると、なんだか予定調和になってしまうんですね。ある時、こんなことがありました。〈よりあい〉に叩き癖のあるおばあちゃんがいたんですが、ちょうどそのおばあちゃんが通所する日に社会科見学の子どもたちが来ちゃったんです。担任の先生はどうするんだろうと思って様子を伺っていたら、事前に組んだプログラムを破棄して、そのおばあちゃんに叩かれずに握手をするというゲームを編み出した(笑)。それがすごく盛り上がって。ただ握手するだけなんですが、たとえ叩かれても楽しいアクシデントになって、ちゃんと一つのゲームとして成立していたんです。先生にとってもそのリアル感、ライブ感は新鮮だったようで、「自分たちは事前に組んだプログラムを実行できるかどうかの観点でしか、内容を考えていなかった」って反省していらっしゃいました。

樋口:以前、〈工房まる〉でも同じようなことがありました。総合学習の一環で小学生が施設の利用者と交流するということで、小学生のグループが来所することになったんです。交流の内容は子どもたちが彼らなりに考えてきたようで、当日はドッジボールとしっぽ取りとバスケをすることになりました。彼らはいいことをしている気分で楽しくプレイをしているんでしょうけれど、とんでもない。こっちは一方的に負け続けているんですから(笑)。冗談じゃない、フェアじゃないぞ、と。子どもたちはいいことをしているつもりだったから、利用者たちのクレームに唖然としていて。でも彼らなりに、利用者たちがどうして怒ったのかをきちんと考えたんですね。で、後日、小学生たちが考えたフェアなハンデを設けた新ルールで再試合を行うことになった。そうしたらうちの利用者も俄然、本気になって(笑)。小学生も本気でプレイしていたし、すごくいいゲームになった。そういう経験があったおかげで、その交流はその後も続きました。

村瀬:自分たちの頭で考えたことは、あとあとも記憶に残りますよね。いわゆる専門職の人たちが、「安心・安全」のために企てたプログラミングが先行していたら、当事者は主役になれません。

鳥羽:必要なのは、それに意味があるかどうか考えるのではなく、まず当事者の声や要求に耳を傾けてみることなんでしょうね。

〈工房まる〉野間のアトリエにて。〈工房まる〉は1997年、福岡県福岡市で無認可の福祉作業所としてスタート。現在、福岡市内の野間、三宅、野方の3カ所にアトリエを構え、20〜40代を中心とした総勢50名ほどのメンバーが通う。


相手に抱く「役割」から解放される親子関係

村瀬:実は鳥羽さんにお目にかかったら伺いたいと思っていたことがあったんです。子供の塾通いって、当事者は楽しめているんでしょうか。というのも、僕の時代はそこまでの学歴社会ではなかったから、夜遅くまで塾で勉強するという風景がなかったんですよ。僕には、そこに親の期待が見えてしまって。

鳥羽:学習塾ですから、親の期待に応えるという前提があるのは確かです。でも、そのことと、通う当人たちが楽しむというのは、必ずしも矛盾しません。子どもには親の期待に応えたいという欲求のほかに、自分の変化を楽しむという側面がありますから。また、うちの場合、塾にリフレッシュしに来る子も少なくない。学校や部活で同級生と交わる、家で家族とくつろぐ。それとは全く別のフェーズのコミュニケーションを求めるサードプレイス、心がほどけるコミュニティというのでしょうか。そういう使い方をしてくれる生徒のお母さんは、「子どもが楽しそうに塾に通っている」と言ってくれますね。

村瀬:〈工房まる〉の利用者の親御さんはどうですか?

樋口:そもそも、障害のある人の親や家族って、施設と積極的に関わろうという人が少なくないんです。バザーを開催したり、親睦会を独自に開いたり。〈工房まる〉は、開設当社から「〈工房まる〉は親の会は作りません」って宣言しちゃった。ここに子どもを通わせている間は、親は趣味に没頭したり、友人とお茶をしたり、とにかく自分の好きなことだけをやってほしいってお願いしたんです。子どもといっても皆、成人していますから、本来なら親離れしているのが普通じゃないですか。でも障害のある人の親は、子どもがここできちんと人間関係を築いているとか、何かしら家で味わえない刺激を得ているという事実をなかなか理解しにくいんです。親離れできないんじゃなく、親が子離れできない。ここは僕らと彼らが楽しむ場所なので、そこにはもしかしたら親に話せないような事柄もあるかもしれない。そういう場所や時間があってもいいじゃないかって、親御さんに理解してもらいたい。だって、いい年をした子どもの人間関係を親が全部、把握しているなんておかしいでしょ? 親がそれを手放すこと、それが家族を大きく変えるきっかけになります。家族が変わることって、案外、大事なんじゃないかな。

村瀬:お年寄りの場合も全く一緒ですね。子どもというのは、ぼけてしまったお年寄りにもかつての親の姿を投影してしまい、親という役割を彼らに求める。お年寄りもそこに縛られてしまって、親らしく振る舞おうとするんですよ。けれど、かつての役割を全うすることはもはやできないんです。そんな時、子どもは親をもっと違う存在として認めてあげることが必要なんじゃないかな。お互いに対して抱く固定観念から解放される、とでもいうんでしょうか。

鳥羽:子の側も子供であることから降りる必要があるということですね。そうやって、子が親の新しい一面を知ることで、初めてわかることがあると思うんです。親も子も正しさばかりを求めがちですけれど、 それでは子どもと親の関係は変わらない。

村瀬孝生さん。

村瀬:〈よりあい〉でもけんかを始める家族や親子は少なくないです。そのとき、けんかを諌めるのではなく、「もっとやれ!」って茶々を入れる第三者が必要なんです、親子関係には。それでお互い、冷静になれる部分がある。

樋口:〈工房まる〉にもちょっとしたけんかはよくあるんですが、社会的にはけんかはダメ、とか、人に迷惑をかけちゃダメ、って意識が強いですよね。

村瀬:けんかには「企て」がないですから、そんなに悪いことではないですよね。だって相手とリアルに関わって生まれた感情ですから。

樋口:結局、社会に必要なのも、けんかのようなライブ感やハプニングじゃないのかな。

村瀬:先ほどの話に繋がりますが、ハプニングまでを禁じてしまうと社会から遊びとか余白がなくなってしまいます。でも実は、そういう意味のないことこそ、社会には大事なんじゃないかな。

鳥羽:せっかくの余白が、「意味のあること」だけで埋め尽くされてしまうって恐ろしいですよね。うちの塾でも、もし子どもたちがどうしてもやる気になれなくて勉強に向き合えないなら、「今日は帰ったほうがいいよ」って指導しています。ここで漫然と時間を過ごすのではなく、別の場所で楽しい何かを吸収してほしいし、休息が必要なら休んでほしいから。やっぱり子どもたち自身にその選択を委ねたいし、それも彼らにとっては「余白」かなって思っています。

村瀬:確かに〈よりあい〉でも利用者に帰ってもらうことはありますね。でも長期的に見てみるとそれがむしろうまく働いたりする。何も判断できないと思われて世間的には否定されているお年寄りだけれど、自分で何かを選択したんだという自信になりますから。

樋口:結局、僕らはハプニングや彼らの選択を「待つ」方なんですよね。いつもそういう「何か」が起こったらいいなと思って待っていて、それが実際に起きると待っていた甲斐があったなって涙が出そうになる。

鳥羽:親もそうですね。子どもに対しては待つしかできない。けれど親が勝手に自分の中で不安を溜め込んでしまうと、そうした不安が爆発してしまい、子どもに対して余計なことを言ってしまうんです。でも、そういうときに親が見ているのは自分の子どもではない。社会や周りの親の目なんですよ。少なくとも自分の子どもと向き合っていはいない。それで子どもが台無しにされてしまう、痛々しい瞬間をいくつも見てきました。

樋口:鳥羽さんがやっているのは大変なことですよね。子どもだけではなく、親のケアをしなくちゃいけない。

村瀬:僕たちも家族や介護する人たちのケアを考えなくちゃいけない。正常か異常かだけでものごとを判断する社会から、勝手にキャンペーンを張られているわけですから。

鳥羽:基本的に、その手のキャンペーンはいつも張られていますよね(笑)。昨日、公民の授業で生徒たちに「生存権」を教えたんです。生存権とは、「健康で、文化的な人間らしい生活を送る権利」のことなんですけれど、ここで疑問に思いますよね。そもそも「人間とは何か」を教えていないのに、「人間らしい権利」を論じるっておかしくないか?って。僕たちは結局、「人間」を作る前に「人間らしさ」を形成してきてしまったわけです。世の中や社会の根っこに形骸化した「人間らしさ」があり、それを子どもが押し付けられる。それって恐ろしいことですね。

鳥羽和久さん。


地域に欲しい居場所は、自分たちで作る

樋口:今日は地域やそこでの居場所がテーマだったんですが、そもそも地域にはどんなものがあったらいいと思いますか?

鳥羽:意味のない場所。意味なく立ち寄れたりたまったりできる場所でしょうか。

村瀬:欧米にはチャリティの文化が根付いていますが、自分でお金を払って自分の時間とお金を他人に使う、そういう場所がいまの日本には必要なんじゃないかなって思います。

樋口:そうですね、自分たちが必要な場所は自分たちで作る。今後はそういう、自治区的発想が必要になるんじゃないかな。自治体頼みではなく。

鳥羽:お膳立てされすぎないことは大切ですね。例えば学校が生徒にボランティア活動を促すときのように、初めから立ち位置が決まっていると、そこで溝が生まれてしまいますから。せっかくの支援が、それこそ支援者側の「企て」に回収されかねない。

 

樋口龍二さん。

樋口:最近でいうと、とかく「多様性」をテーマにしたがるけれど、そもそもそれをテーマに据えたらダメだと思うんですよね。多様性って企てるものではなく、結果として生じるもの。多様性というテーマに向かってみんなが考えましょうっていうのは、違和感があるかな。

鳥羽:そうですね、テーマにしたらダメってもの、ありますよね。最近、各地の高校に「学級運営について話してください」って招かれるんですが、その時はまず、「そもそも学級を運営しようと思わないでください」ということからお話しします。樋口さんが仰った、まさにそういうことだと思うんですが、学級の団結とかまとまりなんてそんなものはないんですよ。一年を振り返ると、結果としてまとまったね、というだけの話で。そういうものはそこにいる人たちみんなで作り上げるものですから。

村瀬:地域というと行政区で語られがちですが、僕にとっての「地域」は、例えば誰かがいなくなった時に一緒に探してくれる、他人のために動いてくれる、そんな「顔の見える」コミュニティ。赤の他人だからこそ、ある程度無責任にその人のために動くことができるんですが、その距離感がちょうどいい。

鳥羽:そうやって一人ひとりに普通に寄り添って、その結果、その人がどこかに復帰できたらいいな、そんな気持ちで続けられればと思っています。

樋口:僕たちのやっていることって、酒造りみたいなものなのかもしれませんね。発酵槽の中で何か起きるか、じっと見守る。そうして生まれた産物が、思いもよらない美しいものだったりして。そういう嬉しい驚きや発見があるから、何十年も続けていられるのかもしれませんね。


Information

宅老所よりあい

  • 住所:福岡県福岡市中央区地行1-15-14
  • TEL:092-761-4260

宅老所よりあい ウェブページ

工房まる
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  • 住所:福岡県福岡市南区野間3-19-26
  • TEL : 092-562-8684

工房まる ウェブページ

唐人町寺子屋

  • 住所:福岡県福岡市中央区唐人町1-1-1 成城ビル
  • TEL:092-791-9690(代)

関連人物

村瀬孝生

(英語表記)Takao Murase

(村瀬孝生さんのプロフィール)
1964年、福岡県出身。大学卒業後、特別養護老人ホームにて生活指導員として勤務する。1996年、〈第二宅老所よりあい〉所長に就任。『おしっこの放物線 老いと折り合う居場所づくり』(運も書房)、『あきらめる勇気 老いと死に沿う介護』(プリコラージュ)、『増補新版 おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など、著書多数。

鳥羽和久

(英語表記)Kazuhisa Toba

(鳥羽和久さんのプロフィール)
1976年、福岡県生まれ。2002年、大学院在学中に中学生のための学習塾〈唐人町寺子屋〉を設立。現在も塾長として小学生から高校生まで160名以上の生徒を指導する傍ら、各種イベントの企画や地域活性化プロジェクトに携わる。著書に『親子の手帖』(鳥影社)、『旅をする理由』(啄木鳥社)。

樋口龍二

(英語表記)Ryuji Higuchi

(樋口龍二さんのプロフィール)
1974年、福岡県生まれ。2007年よりNPO法人まる代表理事を務める。東京と奈良のNPOと共同設立した「エイブルアート・カンパニー」福岡事務局長も兼任、2015年に福祉事業所の商品と物語を発信する「(株)ふくしごと」を、地元企業やクリエーターたちと共同設立。障害のある人たちのアートを仕事に繋げるなど、多様な人たちを包括できる社会を目指してさまざまなプロジェクトに取り組んでいる。